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父の青春とそばにある本達

最近、父から新しい本の読み方を教えてもらった。

ツンドクと呼ばれるその読書方法について習ったときに、これまでの僕の読書方法はどれだけ柔軟性に欠けていたのかとハッとさせられた。

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ある日、突然父が本を買ってきた。

それは、今大河ドラマの主人公にもなっている
渋沢栄一著の『論語と算盤』。


江戸の倒幕から明治までの目まぐるしい時代を駆け巡った彼が心得た、先の見えない時代の指南書だった。

父はこういう本を読むのかと、少し驚いた。


普段本を読んでいる姿なんて微塵も見せてこなかった父は、今でこそNHKのドキュメンタリーや大河などテレビばかり見ている姿しか見せない。

しかし父は、僕の倍以上の年を生きている訳で、きっと今の僕と同じくらいの時代には、本を読んでは、自分や社会の将来に夢を抱いたり、海外の文化に憧れをもったり、フィルム写真のような淡い父の青春時代が垣間見れた気がして、父が急に身近に感じられた。

*

ひと月くらい経ったある日、本の感想について聞いてみた。

「そういえば、あの本どうだった?」

「あの本はツンドクしたよ」

「ツンドク?」

「知らない?ツンドク。読まずに"積んどく"だけっていう読み方」

これには一本取られた。父に、日本刀で一刀両断された感じだった。思わず声をこぼして笑った。

刀で一刀両断されたからか、なんか体が軽くなったように思えて、本の感想などとうに頭の中からは消えていた。

自分がいかに凝り固まった方法でしか本に向き合ってこなかったと、楽観的?な父を羨ましくも思った。

父は笑っている。

父の笑みからはなにか、どっしりとした余裕を感じた。

これが貫禄というものか。歳をとったが故にでる人生経験の苦労とか、大人の滲み出る余裕のようなものか。

なにか、心地いい風が心に吹いた。

*

父から習った新しい本の読み方とは積読(つんどく)と呼ばれるダジャレめいたもので、決して役に立つ読書術ではないが(もしかしたら積読も極めたら、その道があるかもしれないが)、本は読むものとしてしか捉えていなかった自分には新たな視点をくれるものだった。

ああ、本は読むだけのものではない。
本は積むものだ。そうなのだ。そうなのかもしれない。

今日もその本は、捲(めく)られてくたびれた様子もなく、生まれたての赤子のように綺麗な状態を保ったまま本棚の端の方に積まれている。

表紙に映る渋沢栄一はどこか、寂しそうな表情にみえる。

社会学や文化人類学の力を借りて、世の中に生きづらさを感じている人・自殺したい人を救いたいと考えています。サポートしてくださったお金は、その目標を成し遂げるための勉強の資金にさせていただきます。