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アオハルへのレクイエム ~56th獅子児祭を終えて~

 僕はなんて幸せな人間なんだろうか。

 第56回獅子児祭で実行委員の代表(正式にはチーフプロデューサー兼チーフディレクター兼部門インターフェース兼モデレーター兼ゼネラルマネージャー)を務めさせてもらい、僕は中高生活の「集大成」を迎えることができた。

 「集大成」という言葉については閉会式の挨拶でも取り上げたので、まずその時のスピーチを書き起こし記しておきたい。


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(閉会式挨拶)

 無事大きなトラブルもなく、獅子児祭オフライン開催やライブ配信を終えることができました。オフラインのほうでも盛況で、もっと人数を入れたいという贅沢な欲求は生まれてしまうのですが、僕は「僕らはよく頑張った」と素直に感じております。
まず、このような情勢の中で開催できたことに、多くの方々へ感謝を申し上げます。本当にありがとうございました。
生徒の皆さんにも本当に協力してもらい、実行委員一同としても大変ありがたく考えているのですが、少し真面目な話をして僕の閉会の言葉とさせていただきたくて、我慢していただけるとありがたいです。

 孟子が孔子を言い表した言葉に「集大成」という表現があります。
今回の獅子児祭は僕にとって中高生活の集大成となる獅子児祭でした。
まず、僕の中学生のころからの願いだった下級生の参画、これを実現することができました。中学生が実行委員や有志の活動に参加できるようになったのは今年からで、多様性あふれる獅子児祭を築くきっかけになったと考えています。
また、僕ら自身、獅子児祭が自分たちの集大成にふさわしいものになるようにお客様とのコミュニケーションを重視してオフラインの開催にもこだわってきました。オフラインでの開催にこだわりつつ、昨年のオンラインを進展させたので、僕は今回の獅子児祭は二つの文化祭をやったようなものだと感じております。オンラインとオフライン、どちらも充実したコンテンツを作り上げ、生徒の皆さんにも協力してもらったことで、第56回獅子児祭は僕らの「集大成」にふさわしいものとなりました。

 ところで、「集大成」という言葉は「集めて大きく成す」と書きますが、僕はいま、「集まって大きく成す」だと思います。生徒同士が、生徒と教員が、生徒とお客様が、「集まって」、第56回獅子児祭を作り上げることができました。改めて、本当にありがとうございました。

 僕は下級生の皆さんにとても期待しているので、来年度以降の獅子児祭もぜひ盛り上げていってほしいと思います。そして、5年生の皆さんは僕とともに同志として第56回獅子児祭を作り上げてくれたことに、本当に心から感謝しています。一緒にアオハルを楽しんでくれてありがとうございました。

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しっかりと原稿を用意していなかったにも関わらずここまで自分の言葉で話せたのは人生でも稀で、それは獅子児祭に最大限の自信をもって終われたからだと思う。

 「集大成」の言葉を使うくだりは当日の朝に思いついたものだったのだが、この言葉がふと自然に湧き上がってきたのはこれまでの獅子児祭での活動を通して自分の心にほのかながらもその自覚が生まれていたからかもしれない。自分で読み返しても驚かされるくらい、本心のままで話すことができた。


 そんな獅子児祭だが、ここまでの道のりは長かった。
まず、春休みごろに企画やコンセプトのアイデアなどを出し合う「プランナー」からスタートし、 始業式とともに実行委員を組織した。対外的な目玉を模索するうち、攻玉社学園とのコラボレーションが決定。 6月ごろから夏にかけては実行委員会が本格的に動き出したものの、8月の下旬ごろに開催延期が決定された。その決定とともに当初の開催予定だった9月には「プレイベント」を開催することを決意し、延期前の開催日に向けて用意してきたコンテンツをオンライン上で公開した。その後はプレイベントの反省をもとに先手先手で11月の獅子児祭へと準備を進め、インターネット上でのオンラインと実際に校舎にお越しいただくオフラインを併せたハイブリッド型の開催にこぎつけた。


 僕らは今年度、獅子児祭のオフライン開催の復活にこだわってきた。開催形態については特に8月下旬あたりに集中的に話し合いを行い随分と悩んだものだったが、結果的にはあの時の議論があったからこそ一つのものに向かう実行委員というチームを再認識し、ハイブリッド型の開催実現につなげることができたのだと思う。ところで、獅子児祭当日に受けた取材でもなぜここまでオフラインの開催にこだわってきたのか質問をされたのだが、理由としては「リアルなコミュニケーションを大切にする」という点に尽きる。開催形態について話し合っていた当時の会議録であり決意表明でもある書類を覗いてみると、僕らの強い意気込みが感じられる(以下抜粋)。

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来場者の方と実際に交流をし、同じ場を共有して世田谷学園を、そして獅子児たちの魅力をお伝えすることには、オンラインでは得られないものがあるのです。そして何より、オフラインでの開催を望んでいる獅子児が少なからずいる以上、実際に世田谷学園へ足を運ぼうとしてくださるお客様がいる以上、実行委員を率いる立場である僕らに、オフライン開催への挑戦を諦めるつもりは一切ありません。(中略)僕ら自身、オンラインに振り切ったほうが楽であることは理解しています。オンラインでの開催が決まっている学校では、こうした感染対策に取り組む必要がないためです。しかし、それでも僕らはオフラインでの開催を目指してここまで歩んできましたし、これからも歩み続ける覚悟です。

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 結果的には学園が僕らの思いをしかっりと受け止め認めてくださったことでオフラインの開催を実現させるに至ったわけだが、個人的には開催形態に関することの他に、雰囲気づくりや仲間たちとの協働性についても考えることが多かった。特に、動き出しに遅れていた上に仕事やノウハウの引継ぎをきちんと受けていなかった僕らは、手探りの状態で組織作りを始めざるを得ず、夏に入るまでは自信を持てない時期が続いていた。夏に入り企画の案や具体的な仕事の方向性が見え始めてから、やっと実行委員としての意識が共有され始めたのだと思う。その頃には優秀で頼れる実行委員のメンバーが本格的に動き出したため僕もひとまず安心感を覚えたのを記憶している。来年度以降の実行委員たちも経験することだろうが、実際に動き出すまでの時期が辛いのではないかと思う。仕事はそこまで無いが、まだシステムが完成していない上に仲間も定まりきっていない中でコンセプトを作り上げイメージを膨らませるのは思っている以上にハードなことである。さらにその時のコンセプトは次第に変わっていくこともありうるし、忘れられてしまうこともありうる。

 コンセプトの話題が出たので「理念」という点について記すなら、僕はコンセプトや意義を重視する頭でっかちな企画者だったと思う。みんなで話し合って決めた「男子校の良さを伝える」というコンセプトだが、僕自身は(口にはあまり出さないが)忘れずに日頃から意識してきた。まず、「男子校」という観点から攻玉社とのコラボに尽力し、やがて「男子校の良さを伝える」なら「男子校の生徒の人柄やありようを見せつけなければいけない」というより具体的なコンセプトへと行きついた。こうして実際に動きながらコンセプトを見直すと、抽象的なコンセプトを適用するにはそこから具体的なレベルにまで落とし込む必要があるのだとわかる。結局9月26日のプレイベントではこのコンセプトに基づき「作品より『人』を出そう」と掲げ、日々自らの「好き」を追求し続けている獅子児たちが、その魅力や奥深さについて交代制で語るライブ企画「沼にハマって語らせてみた」を配信した。 

 僕としては他にも、はっきりとはわかりにくい「裏コンセプト」として「実行委員を裏方で終わらせない」というものがあった。獅子児祭の主役が「日々自らの『好き』を追求し続けている獅子児たち」であるなら、実行委員もそこに加わって当然であり、その姿は外部からも見えるところにあるべきだと考えたからである。そこで裏方に回りやすい仕事をしていたメンバーにラジオ企画を提案したところ、気づいたときにはいつの間にか彼ら自身で素晴らしい配信に発展させていた。(このラジオ企画はクオリティが高く僕自身もそのファンとなった。)

 さらに、僕自身が一番「肝いり」で進めてきた企画である「エクストリーム登校」は、今しかできないことを贅沢にやりきる「新感覚・青春アクティビティー」であった。

 例を挙げればほかにもありそうだが、とにかくコンセプトを大事にしてきた僕は、(閉会式でも述べたことだが)「下級生の参画」も強く意識してきた。僕が中学三年生の時の第54回獅子児祭は来場者数1万人を記録し、グランドフィナーレではそのことを受けて実行委員長の先輩によるビデオメッセージが上映されたのだが、その時の映像が今の僕を作ったし、今回の獅子児祭の在り方を左右し、おそらく、これからの獅子児祭のあり方も左右したと思う。なぜなら、その時の映像を見て憧憬と羨望を感じた当時の僕の複雑な思いが、今年度実行委員を率いて下級生の参画を推し進める原動力になったからである。先輩方の代の獅子児祭において、後輩は「先輩の背中を見て」いた。「背中を見る」ということは後方から一定以上の距離感をもってでないとできない行為である。僕はこの距離感を縮め、後輩が「先輩とともに作り上げ」る獅子児祭にしたいと願ってきた。中学三年生のころの映像が決定的なものではあるが、僕は中学生の頃の獅子児祭を通して次第にこうした願いを抱くようになってきていたのだと思う。

 僕が実行委員を率いる立場につくことになったのは「下級生の参画を推し進める」という自身の経験に基づいた願望に加え、優れた友人の存在があった。昨年度の獅子児祭で自らの「好き」を追及してドローンでの映像制作の企画を提案した友人は、僕に各人が「好き」を追及することの強さを教えてくれたし、僕自身も複数の有志団体で文章の執筆などに取り組み、自らの「好き」を追及しようと励んでみることにつながった。こうして友人との関係を通して獅子児祭の持つ意味や存在意義を改めて自覚し始め、実行委員を率いていくことへ意識を向けていった。

 男子校で暮らしている僕らだが、この各人の「好き」が持つエネルギーは素直に素晴らしいものである。男子校の良いところは「好きなことに熱中できる」ことだとよく言われるが、獅子児祭はそのエネルギーを放出する機会でなければならない。他方、熱中しすぎて周りが見えなくなってしまうことがあるということもお分かりだろう。そう、「周りを見る」ということはとても難しい。僕自身、準備を進めていても「世間とのギャップ」を捉えて埋めるのに苦労してきた。自分たちは当然だと思っている前提は簡単に崩れ、言葉一つとってもそのニュアンスはその言葉が受け取られるメディアや環境によって異なる。お客さんの立場で俯瞰して捉え直すと、自分たちがどれだけ熱中して作り上げた作品や企画でもその文脈や意図がお客さんに伝わらないかもしれない、ということに気づくことがある。すなわち、どれだけ自分たちが熱中していたとしてもお客さんの視点を失ってはならないし、常に思考を相対化する癖をつけなければならない。このことは本当に難しい作業になると思うが、図ってか図らずもかこれに成功すると「よい文化祭」と楽しんでもらえるのだと思う。

 つらつらと思いついたことから書いてきたが、当日の獅子児祭の様子についても触れておこう。オンライン上の様子は実際に公式ホームページを見て貰うものとして、オフラインでは制約のある中で各団体が本当に上手く準備をし良い展示をしていたと思う。150組300名と入場制限を設けての開催だったが、2階から4階までうまく人が分散するように団体を配置し、アリーナでの吹奏楽部やバンドの演奏も準備してきた。前日の終日準備からは各団体が本格的に「獅子児祭ムード」を演出し始めたことで、獅子児祭のオフライン開催の復活を実感する日々だった。
 当日、来場者の方々は1時間15分という限られた時間の中でも各団体を周り獅子児祭を楽しんでくださったようで、来場者参加型のドローンやラジコンの操縦、ルービックキューブを使った展示などはお客様とのコミュニケーションの重要性を目に見える形で示していた。歴史部や地理部に鉄道研究同好会、生物部や物理部、化学部などの文化部の展示では楽しそうな部員たちの様子も見ることができて、「文化祭は文化部の晴れ舞台だ」と思い返されたものだった。また、僕はこの間に3本の取材を受けたのだが、記者の方々もオフラインでの開催を高く評価してくださっていた。
 スケジュールの間を縫って空いた時間に吹奏楽部の演奏を聞きにアリーナを訪れると、その音色を通して演奏の迫力や部員たちのやる気がリアルに伝わってきて、どこか心動かされて身震いするようなところがあった。全体として、オフラインにこだわってきたことを自分たち自身でも心から評価できたのではないかと思う。団体の皆さんおよび来場者の皆さん、オフラインでの開催を支えてくださったすべての方々に感謝である。


 こうしてオフライン開催を実現させたことに加え、オンライン上でも動画やクラスター、ライブ配信といった充実のコンテンツを用意した。YouTube Liveでは有志の団体から教員や生徒のコラボでお送りする企画もあり、実行委員からも人気企画のリアルタイム配信と盛り上がりを見せ、磨きをかけてきた機材班の腕前も相まって多くの視聴者の方々に楽しんでいただけたと思う。
 さて、ここまで自らのことを中心に述べてきたが、獅子児祭に取り組むに当たり多くの友人や教員の方々の協力があったことは言うまでもない。そのうえ、それも素晴らしい友人や教員と出会い、これまで共に歩んでくることができて、僕は本当に恵まれていると思う。今回の文化祭を通して僕は自分が想像以上に弱いことを知った。精神的には強い方だと思っていたが、自分の進めてきた企画が挫折しそうになったり、自分たちの思い通りにならなかったりした時、僕は自分一人ではどうしようもないほど弱かったと思う。しかし、それでも自分のやりたいことを「やりきる」ことができたのは周囲の人々の支えがあったからこそであり、その中には企画を見てくれる視聴者の方々や僕が文化祭に取り組む中で出会った他校の生徒も含まれる。本当に多くの人のおかげでここまでこれたと実感する。改めて感謝を告げたい。

 本当にありがとうございました。


 ところで、「文化祭を通して変わったことは何ですか」と取材で聞かれたときには「世の中を見る目が変わった」と話した。企画発案の参考に、広告や宣伝の手法として参考に、人を育て組織を作ることへの参考に、そんな視点で世の中をとらえ、実行委員のメンバーに対しても各人のポジションを俯瞰して捉え、僕は後輩たちを「育てる」経験ができたのかもしれない。組織がどうやって動いているのかも知ることができたし、リーダーのありようを追及する中で世の中のことが少しわかってきたような気がするのだ。しかし、すべてが終わって思い返してみると、それ以上にもっともっと大事な変化があると思う。

 それは、「やりたいことをやりきる」意味を実感することができた、ということだ。「やりたいことをやってみる」のではない。「やりたいことをやる」でもまだ足りない。「やりきる」ことをしなければ、やりきったからこそ出会える景色は全く見えてこないし、自分の成長も頭打ちになってしまうと思うのだ。だから、後輩たちには「やりたいことをやりきれ」という言葉を残したいと思う。そこに行きついてこそ、「集大成」と呼べる景色が広がっているように感じるから。

 後輩たちには来年度以降の獅子児祭をきっと盛り上げていってくれるだろうと期待しているし、僕らの代で実現させた「下級生の参画」というスピリッツをこれからも引き継ぎつつ、自分たちなりの獅子児祭を作り上げていって欲しいと、心から願っている。

 さて、僕は最後の最後までやりきることができただろうか。僕は中高生活を通じて自らの「アオハル」を獅子児祭に捧げてきた。打たれた鐘が細かに震えながらその音が遠のいていくように、今、僕のもとから、獅子児祭が、僕の「アオハル」が、離れていこうとしている。

 この文章を書いていて、やっと自分の思いが言葉にできた。今、僕の心からは寂しさや尊さ、愛や感謝といったものが溢れ出しそうで、その分かえってある究極的な一点に向かっているような、そんな感じがする。


 僕の、僕らの、「アオハル」が遠のいていく。
 僕の手のもとから先ほど離れたばかりだが、今度は今にも視界からもうっすらと消え去ろうとしている。

 いや、これは潤んだ瞳のせいで視界がぼんやりとしているだけなのだろうか。もしそうだとしたら、「アオハル」はまだ僕のそばにいてくれているのか……。

 ともかく、「アオハル」は今日、僕に別れを告げた気がするのだ。
 だから、ここをもって「アオハルへのレクイエム」を捧げたいと思う。

 静かに垂れてきた一滴の涙がしみ込んで放射状にぼやけていくような、そんな、レクイエムだ。

へいすてぃ(高二)


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