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気質や価値観を変化ではなく進化へ。

ちょっとネガティブ要素が強めです。
感情移入しやすい方や、
喝を入れたい方、閲覧しない事をオススメします。
共感して欲しいわけではありません。
慰めて欲しいわけでもありません。
ただ、私の今の気持ちを拙い文にして綴っている、
そんな投稿になっております。

寒い日が続いており、
コタツから中々出れない日々を過ごしております。

気づいたら、最後の投稿から
2ヶ月ほど経っていました。

最近は体調を崩すことが多く、
気づいたら丸1日布団から
体を起こすことすら出来ない日もありました。

そんな日は息子たちが何も言わず、
自分らで米を炊き、
私の体調が良かった時に
作り置きしていた常備できるものや、
卵を焼いて2人で食べていたりする姿に
申し訳なさやありがたさを感じています。

世の親御さんたちは我が子のために
暖かいご飯を毎日作ったり
家事をしたり、仕事を頑張ったりしている
と考えては落ち込んでしまう。

でも周りはそれを今は気にしなくていい、
できる時でいい、と言う。
息子たちも気にする様子もなく、
ずっと変わらぬ態度でいてくれる。

頭ではわかっています。
出来ない時があって、仕方がないのだと。

ふとした時に自分のことがすごく嫌になります。
今、自分は甘えているのではないか、と。
以前のように気にしない振りをして動けば
出来るのではないか、と。

2時間ほどの睡眠でも、
全く眠れなかった日でも、
1歩外に出れば目は冴えたし、
普通に仕事ができました。
3日くらい寝れてなくても本当に平気でした。
「疲れた」と皆が言うから口では言うものの、
「疲れる」という感覚はわかりませんでした。
ある人が「体調が悪い」と言って、
周りがサポートしている姿を見て、
周りの人が余計に大変な思いをしたり、
負担がかかり嫌な思いをするのではと思い、
自分の体調の悪さを言うのができませんでした。

休みの日になると40度近い高熱が出ても、
仕事の日の朝には平熱になるのです。
私の体自体も自然と人に気を配れる、
ある意味便利な体になっていました。

職場でギスギスした空気が
好きじゃありませんでした。
自分のせい、とまではいかなくても
私がどう動けばこのギスギスが少しは和らぐのかを
自然に考えるのが当たり前でした。

一人暮らしとかじゃありませんでしたが、
熱を出したら、自分で何とかしていました。
体調悪くなってごめんなさいと思っていました。

笑顔で楽しそうにしている2人だったのに
もう1人が休んでいる時に
笑顔で嫌味を言っているのをみて
怖さを覚えました。
その人が復帰すると
「仕事できる○○さんがいないと大変だったし寂しかったよー」と言い、和気あいあいとしてる人たちに
恐怖を覚えてしまいました。

私がいない時は
私のことを言っているんだろうな、と。

人と接することは好きです。
その人を観察して
「こういう人なんだろうな」と考え、
私と話している時にその人が楽しそうだと嬉しくなります。

でも人と会話をする事は怖くもあります。
言葉の端々に意味を感じてしまうからです。
その人は何気なく言った言葉、
別に深い意味は無い言葉でも
私には意味のある言葉に聞こえてしまい、
勝手に気にして、勝手に落ち込んでしまいます。

でも その人は悪くありません。
私の考え方がそうであってしまっているからです。

そしてきっと、私も気付かぬうちに
誰かを傷つける言葉を言ってしまっているのかもしれません。
それを機にしてしまった時に
ずっと頭の中でグルグル考えてしまい、
収集がつかなくなっていったりします。

人との物理的な距離感や会話内容、接し方などを
解決できないままグルグルしながら
人と関わり生きていく。

その私の中の「当たり前の日々」を
何年もしてきた結果がこれです。

ある時、歩くと吐き気に襲われるようになりました。
道で急に吐くこともありました。
幸い、と言っていいのか吐瀉物は毎回胃液のみでした。
飲みもしない水を持ち歩いてすぐ片付けられるようにしてました。
今は吐き気や気持ち悪さはあるものの、
ある程度対処できるようになりました。

またある時は、どうやって歩いていたかわからなくなりました。
さっきまで歩いていたのに、です。
右足を出して歩く、右足?なんで歩くんだっけ、、
そんな感覚だった記憶があります。
これは今でも時々あります。
そんな時、連れ添って歩いてる人は
何も言わず、私が歩き出すのを少し手前で待っていてくれる。
お互い何も言わないけど、心強いのです。


そんな時、突然のことでした。
仕事に行こうとして
起きた体を起こそうとして、「体を起こす」
この行為が突然できなくなりました。
頭では起きなきゃ、と思っているのに
体が全く動かないのです。
職場では上司と面談の上、心療内科に行くかを決定すると
言われていたのに、もう私の心は限界を迎えているのだと
何となく感じました。

職場に手順を踏まなかった申し訳なさもありましたが、
今すぐに見てもらえるところを探し、 
向かいました。

医者からは重度の鬱だと診断されました。
本来なら入院レベルだと。
誰のせいでもありません。
職場のせいでも。
周りのせいでもありません。

私の性質が、価値観が、何年も積み重なってきた結果。
最初の原因を辿るつもりもありません。
本当に何年もちょっとずつ積み重なってきたものだろうから。

自分のことは今でも好きではありません。
でも、昔のように「嫌い」でもありません。

今でも周りとの意見に違いがあり、悩むこともあります。
でも、受け入れられない自分がダメとも思わず、
自分の気持ちを折れる、でもない。
「私はこう思うけど、この人はこう思うんだよね」
何の解決にもならないかもだけど、
そういう風に感じたりするようになりました。

相変わらず何も出来ずに終わってしまう1日を
自分でホントにダメになったな、ポンコツになったなと
思う日しかありません。
でも、それが今の私なんだと。

それでも受け入れてくれる人に感謝し、
そばに寄り添ってくれる人たちに迷惑をかけてはいけない、
いや、、そう思うのではなく、
感謝をして出来る日に出来ることをしよう。

生存確認のように大事な人たちに
「今日これを作ったよ」と
作ることのできたご飯をLINEしてみたり、
「今日編み物できそうだったからこれ編んでみた」と
LINEすると、まるで子どもを褒めるかのように
「おいしそう!」とか「いい色合いの作ったね」と
返事が来ます。
「今日なんにも出来なかった、布団からも出れなかった」という
LINEでは「そんな日もあるよー」と責めるでもない、
励ますでもない、そのまんまを受け入れる返事が来ます。

今の私でもいいのだと言われてるようで。

相変わらず自分が好きではありません。
でも私を受け入れてくれてて、
ちゃんと見てくれる人は
どこかに必ずいるのだと、
自分の現状がこうなってからしっかりと気づくことが出来ました。

前のように「今ここに飛び出したらもう何にもしないで済むかな」とか「ここに落ちたら怪我くらいで終わっちゃうかな」とか
考えてしまい、その後必ず息子たちを思い出し、そんな考えをした自分を責めに責めて、自分嫌いに拍車がかかることはなくなりました。

「何かもう、、何もしたくないな、考えたくないな」という気持ちがなくなったわけではなく、時々考えてしまうけど、
この世をおわらせてしまおうという気持ちは今は無いです。

ひとりで外に出ると息苦しさと吐き気と頭の中がパニックになって気持ち悪くなったり、固まったりしてしまうので、外出する時は誰かと一緒に外に出ることが多くなったし、
遠出をするというのが難しくなったけど、
いつかは○○に行きたいね、まだ行ったことないし。と希望ある会話が少し増えてきたように感じます。

周りに迷惑や負担をかけていると思います。
何よりいちばん近くにいる息子たちに。
それでも笑顔の息子たちがそばに居ると
私はまだ大丈夫、と小さな楽しいを探しては
迷惑や負担をかけていてごめんなさい、ではなく
ありがとう、助かっていますと感謝する日々なのです。

私の「記事」というには拙い文をサポートしてくださるなら、ぜひよろしくお願い致します。 「私」というものから、何がうまれるのか、試行錯誤しながらも記事にしています。 あなたが素敵な文字で包まれますように。