身綺麗にして、格好つけて、好きなことをいっぱい挑戦して、丁寧に暮らす。そして、相手の立場に立ってちょっとだけ考える。そしたらキミ、モテモテだよ。
嫌悪感はやがて好意に変わる。違和感はやがて憎しみに変わる。突然変異としておけば波風立たぬが、じつはどちらも同じこと。深層心理は承認済み。
「俺は雑魚やん」と言いつつも世界中雑魚ばかりだと片目を閉じて見下ろしているイヤなやつとして生きるのも悪くない。
根拠のない自信。根拠のない劣等感。それらが複雑に自分のなかに混在している。それらは単に構成要素でしかないのだが、性格や、ときには人格そのものだと勘違いしそうなときもあってなかなかしんどい。そして反動から制御不能になりゃしないかと自分が恐ろしくなるときもあるね。
大好きな人が傍にいると無駄に傷つけてしまう確率が上がるので、僕は好きな人を敢えて遠ざけてしまふ。それが僕の悪いクセ。
七夕の夜。逢いたい人はこの世でたった一人。。
東京の子供は自己主張をあまりしない。プライドは高い。そして同郷者との距離感をつかむのが苦手だからあまり仲良く出来ない。そのかわり転入生はすんなり受け入れる。気がつくと周囲が転校生と移住者だらけだからそうするしかないのだ。東京の子供は世界一人見知りだがそうとは決して気づかせない。
今になって痛感する。まだ気力体力十分な三十代で親の介護を出来たことを改めて親に感謝。早いお別れはかなりキツかったし、互いに悔いがないかと言えばそんなの永久に有り得ない。だが少なくとも集中して全力投球出来た。「よく頑張ったな。おまえまじでスゲーぞ」当時の自分に言ってやりたい。
君の中のマウンテンゴリラは元気かい?他人が自分より上手く行ってると僻み、上手く行ってないと蔑む、コンプレックスの塊のゴリラのことだよ。ヤツが心に棲み付くと一時も心休まるときはないだろう。吠えてばかりいるゴリラは君の本性じゃないから安心したまえ。君はホントは優しくていいヤツなんだ。
人を本当に好きになると自分自身を燃やし尽くしてしまふ。そうならないためにも理知的に生きるためのプライドが辛うじて僕の心を支えてくれる。本当の愛を僕は知りたい。
初見で身の毛がよだつやうな、説明のつかない猛烈な嫌悪感を感じたら即座に離れる。そして第一印象はほぼ的中する。お陰でいかなる過酷な場面も運良く自分を信じて生きてきた。幼い頃から同調圧力に屈したことはあまりない。そこに関してだけは惚れ惚れするほどなのだ。おいらは花の落ちこぼれよ。
次の週末には都心にいるだらう。平穏無事でいたければ山の上にいればいい。だが居心地を求めて都会へ。それが都会の鼠の本性だ。僕は都会を離れるなんて出来ない。理想郷の幻想はもうやめろ。離島暮らし、海外暮らし、どこまで行っても自分を振り捨てることは出来ない。都会の鼠め。いい加減に認めろ。
僕はね、大好きな人としか一緒になりたくないの。そして、大好きな人とサヨナラするのが堪えられないの。だからね、ずっと一人でいることに決めたの。それが我が儘で傲慢だと非難されてもね。だから、僕が年貢を納めるとしたら、よっぽどのことだと思ふ。多分、それは奇蹟。
ひとつっきりのキャラで生きるの飽きてきちゃう。飽きっぽさは自分に対しても発動するでしょ。だから、こうあるべきなんてこと意味がないの。今世でも、来世でもね。
なぜ自分が生きているのか不思議になるのはときどきあるんだよね。それは物心ついたときからずっと。まあ、それはそれとして、生きていかねばならんの。人生は生きるためにあるんだから。意味なんて考えても時間の無駄。生きることそれ自体に意味があるの。そのことに早く気づけよ。
別れ話に動揺するのは、それまでの自分の世界が崩壊していくさまに恐怖をいだくからであって、必ずしも親愛の情ではなかったりする。依存と執着と虚栄心は愛ではない。人はそれを恋愛感情と勘違いして逆怨みでストーカーっぽくなるんだよね。思い込みと押し付け疑似愛はこのうえなくダサいぜー。
品行方正な人ほど、別れ際はジタバタせずに静観してわりとあっさりしてる。遊び人ほど見苦しいのだ。なぜ?浮気性は嫉妬深い。僕そうだもん。
思考に忙しい脳を休ませる方法はひとつしかない。読書をすることである。
音楽を聴き、読書しながら、つぶやき、ネット検索をして、動画を観て、絵を描き、文を書く。読みかけの本は常に数冊散らかっている。どうしてもタスクをひとつに絞り込むことが出来ない。一つのことに集中出来るのはせいぜい2、3分くらいか。体感では10秒に感じる。ある意味すげーな。
物事を単なる事象として捉える瞬間に、感覚的なものと、哲学的なものと、科学的なものに分けてみる。本当に物事は多面的で面白いんだ。すると薔薇色の人生もあるし、どどめ色の人生も同時に存在することがよく解る。嗚呼、この言葉の真意も伝わらないんだろうなぁ。言葉って難し過ぎるなぁ。
昨日の敵は今日の友。昨日の友は今日の敵。つまるところ、どちらも大して変わりなし。本当はどうでもいいことである。
美術館に行く。作品を鑑賞しながら「これくらいなら、自分にも描ける」と心の声が鑑賞の妨げとなる…この声を解禁したら自由で楽しいか…人知れず冷や汗をかく。幸いにして心の空間は美術館より広く、誰にも聞かれてないとホッとする。が、3秒で通過か、3分凝視か‥態度で全部バレてる。
運命論は好きじゃない。が、自ら親と性別と時代等を選んで生まれてきたと言われることについて、あながち全くの検討違いでもない気がしてきた。前半生ず~っと抵抗してきたが(笑)うーん、受け入れざるを得ない時が来たやうな気が。つまりは、自分自身と人生の全肯定。今頃?これはヤバイね~。
自分の邪悪さに向き合えるか?自分の醜さに向き合えるか?見て見ぬふりをやめることが出来るか?いい人でいたい自分のなかの本性と対峙し、認め、許し、そして愛することが出来たなら、もう逃げも隠れもせずに済む。生地のままの自分でいられる強さを手に入れるのだ。さもなくば死んでも死にきれない。
激しい感情と深い内観、自身のなかに陰陽もなにもかも含まれていて、外に求めるものなんて本当は何もない。ただ事象に対して反応しているだけだ。外の世界を知れば知るほど、己れを認識することが出来る。他者がいなければ、生きることの継続は難しい。認識なくして批判さえも本当は出来るはずがない。
僕が初めて言葉と向き合い、同時に死という概念と向き合ったのは9歳のときだ。自室の勉強机の側面に走り書きした詞は死への渇望だった。そしてなに食わぬ顔をして日常生活に戻っていった。そして大人になり、物書きになった、これがライフワークになるとはあの頃の僕には想像もつかなかったはずだ。
他人に興味を持たせるのは至難の技。そもそも、人は自分にしか興味がない。僕はその最たるもので、全然人に興味がない。だからどうすれば、この世をもうちっと生きやすくするかは各々の生きるスキルにかかってくるわけ。それは自分で磨くこと。心のなかの鏡のくもりを日々取り去る単調な作業なんだ。
僕は恩知らずで恐いもの知らず。いくつになっても、手強い生意気野郎でいたい。いろいろ気にしいだから、敢えてこのスタンスでいくんだよ。成長してるのか否か、今もってわからない。そして、自分に出来る最大限のことをするよ。それで世の中が多少なりとも前進出来るのなら。
生きにくい世の中なんかじゃない。そう感じる自分の心があるだけだ。不幸の手紙は受け取らなければいい。でも優しい人は…全部受け取ってしまう。とにかく煮詰まったら深呼吸して、美味しいものでも食べて、推しの写真みてニヤニヤして、酒飲むのはやめにしてすげー退屈な本でも読んで寝落ちするべし。
行き詰まる度に高村光太郎の「智恵子抄」を思い浮かべる。まだ死ぬわけにはいかないと自分に言い聞かせる。自身のモチベーションが何なのかよくわからない。
車輪を動かせ、重かろうが軽かろうが、やる気満々でも無気力でもどっちでもええがな。とにかく動かせ。そうすりゃ、どう間違えても前進しかしない。それで充分。今日もお疲れ!
凄まじい暴風雨が嘘のような静けさ。ほぼ眠れず、いよいよ裏山が崩れたら家と運命を共にしようと半ば諦めの気持ちで覚悟した一夜‥束の間の晴れ間に小鳥がさえずり始めると、こわごわ外を眺めて一気に気が緩む。途端にモウレツに酒が飲みたくなる‥今、避難指示が出たらおそらく酔っ払って動けない。
塩を肴に酒を飲むという話に驚愕した若き日。つまみのない酒は口寂しいかなと思っていたけれど、気がつくとチーズや塩キャベツの塩味だけで酒を楽しんでいる自分を発見し、再度驚愕してる。健全なくらしを望むなら酒は呑まないほうがいいに決まっている。だが、無駄で無為な時間が今はひたすら愛しい。
玉石混交。つまらない石ころのなかから、宝石の原石を探すのは至難の業だ。誰でも表現者として存在できる昨今、人の感性かAIかと見分ける嗅覚さえも発展途上。ところで君は、有象無象から抜け出せるかね?
長期休暇を申し出たとき「いいなぁ、何処かへ行くんですか?」と訊かれたので、「何処にも行かない。あの世へも行かない予定」と即答したら笑ってスルー。わりとリアルに答え過ぎた。だって明日死んじゃうかもわからんもんね。あとさき何も考えずに生きてきたけど、ここらでちょっと立ち止まらんとな。
気がつくと周囲の普通っぽい人々が風の時代やらパラレルワールドやら世界線とかいう言葉を普通に話している。なんだらうこの違和感。自分はスピ的なことはマジわからん。価値観が大きく転換している過渡期ということしかわからん。叡智の浅深を見分けられない現実逃避屋にならなきゃいいと願う。
掃いて捨てるほどの、作品といえないくらいの代物をつくる。それでもつくらずにはいられない。創造こそが生きる証しとわかっているから。
困っちゃうよな。だって書くことを止めたら僕は死んでしまふから。そこまで追いつめられた人はあんまりいないだらう。書くことは生きること。僕の呼吸を止めないでね。
生きる意味を探す。答えはないとわかっているのに。でも探す。ただ生きていたいから。
高い境涯、広い視野、深い叡智、そして思いやりある優しい言動を自分に望むのがこんなに難しいとは。「自分、自分、自分」の呪縛から早く解放してあげたい。心は本来自由なんだよ。そのことを思い出して。
虫を殺すことに罪悪感を抱く。なんか嫌。でも自分の身は自分で守らなきゃなのだ。
いいじゃねーか。中二病とでもなんとでも言え。俺は全身全霊の恋に総てを燃やし尽くした。それは誰にもわからない。今の自分はその幻想のなかに生きている。笑いたいやつは笑え。それで当人が幸せならそれでいい。そしていつか熱が醒めるときが来たら、ただ愛しいだけの誰かを求めるだらう。
若い頃は、自分の葬式に線香をあげてくれる人が一人出来るまでは死ねないと思っていた。今、そのことを思い出して、ああ、自分、基本的なところは全然変わってないなと悟る。
誰の人生も複雑きわまりない。が、それらを単純明快化するのが人間の善だと思ふ。
興味も、能力も、教養も、愛さえもない人々よ。己の人生を顧みてただ流されて一生を終われ。それもまた悪くない。聖なる酔っ払いがほざく戯言など、誰が顧みるか。
もしかして、クマノミの生態を知らない人が多いのかな?クマノミは宇宙人みたいな特異体質なのだよ。ググってみてね。
クマノミの気持ちがわかる。今はその不確かさに感謝してる。だって単一的な感性なら深い情感を知ることは出来なかった。人殺しにならずに済んだこと、自死せずに済んだことは、クマノミ的な自意識でいられたからかもしれない。この情感は誰とも共有する必要はない。唯我独尊。独りよがりでもいいよね。