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そして、親不孝になる

私は自分に育てられた。

小さい頃からクラスに馴染めるタイプじゃなかった。もちろん自分に原因はあるが、自分ばかりを責めたくないから、親のせいにしておこう。

12歳で日本に来た。溺愛と厳しさで歪んだ親から離れたくて、一人で来た。

もともと人とすぐ仲良くなるタイプじゃない上、日本語も全然話せなかったから、日本人の「普通」に合わせるのに必死だった。

友達もいない、親とも話せない、言語の壁で助けも求められない、お金もない。そんな私はストレスを食べ物にぶつけるしかなかった。

一人になると家の中を漁り、袋ラーメンを粉かけてそのままかじってた。寂しさや苦しさを食べることに集中することで忘れようとした。中学二年の私はまだ知らなかった。これが過食症だったことを。

そして太っていき、自分のマイナスな気持ちを性格に隠し、性格まで歪んでしまった。そのまま高校生になった。

強がりだから、中学校で全く頑張っていないわけではなかった。日本語を早く上達させるために、担任が毎日コメントしてくれる連絡帳に、枠をはみ出すほど書いて、添削してもらってた。初めてのリコーダーの時も、やり方がわからなくて、音楽の先生にお願いして早朝練習をしてた。部活の時は毎週ビリでも5キロを走り切ったり、体育授業のバスケが苦手だったからお店でボールを買って一人で練習してた。

全部親には言わなかった。どうせ分かってくれない、一言で笑ってスルーされると分かったから。

高校に上がると、日本語も少しずつ身につき、友達もでき始めた。しかし、それと同時に過食症も進化していった。

高二の夏休み、突然食べられなくなった。最初は夏バテかと思ったが、秋になっても治らなかった。食べないと怒られるから、そこで吐くことを覚えた。

「吐けばいい」「吐けばスッキリする」「吐くことで悩みも一緒に流せる」。そんな思考にとらわれ、「どうせ吐くならもっと食べよう」と、私の過食嘔吐の地獄が始まった。

毎日食べて吐く生活で精神は不安定になり、ホルモンバランスも崩れ、さらに精神薬のせいで常に眠くてほぼ保健室で過ごしていた。その時期の記憶は曖昧だ。脳がわざと忘れさせたのかもしれない。

覚えているのは、一ヶ月ほど精神病棟に入れられ、トイレと布団しかない部屋で井上苑子の曲を歌っていたこと。そして先生に頼んで英語の単語帳を持ち込んだこと。死にたかったが、今思えば、普通に英単語覚えて受験したいと思ってたかも、生きる希望を実は持っていたのかもしれない。

スマホ持ち込み禁止だったので、治ったと嘘をついて退院した。

その後の5年間、過食嘔吐に苦しんだ。食費は月に五万から十万円。バイト代はすべてそれに消えた。友達にも言えず、深夜に一人で買い出しで収穫した「食べ物」を持って、食べながら泣いていた日もあった。夜の街を歩くのも怖くなかった。むしろ死にたかったから、幽霊が出てもいい、殺人犯に殺されたいと思っていた。

一度だけ、お母さんに電話して吐きたいと打ち明けたが、怒られて終わった。「なぜ大人になれないの」と。その日、過食嘔吐を三回も繰り返した。トイレの横で泣きながら体力を使い果たし、ベッドに戻って寝た。

私は自分に育てられた。過食嘔吐を自力で克服した今、親不孝で生きると決めた。

親に電話するたびに、違和感、不協和音とストレスが漂うようになった。他の子供たちは親に電話するのに、なぜ私だけがしないのかと責められた。収入が少ないことも、結婚をしないことも非難された。しかし、私が親に電話しないのは私のせいではない。幼い頃から親と話す習慣が身についていなかったからだ。私は説明する気力もなく、ため息をついた。そして、私は親を精神的に必要としていないことに気づいた。これからも、私の世界には誰も必要ないのだろう。

そして、自分のために親不孝で生きる。

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