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Q: なぜ人類の平和と安定的な発展のために活動しているのですか?

A: 宇宙に生命の火を灯し続け、その存在に意味をもたらし続けたいから。

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 人のためとか世の中のために献身的に活動する人は大勢いて、その動機は様々だ。多くの場合、出自や幼少期・思春期の体験などの個人的な経験が元になっていたり、大成してからそうした活動に深い意義を見出す場合も多いかもしれない。
 しかし、中には文字通り宇宙スケールの想像と衝動が活動原理になっている場合もあるようだ、という話。

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 日本であまり話題に上らない(僕が聞かないだけかもしれないが)名著LIFE 3.0の著者、マックス・テグマークは宇宙物理学の第一人者にしてコンピュータサイエンスの研究者でもあるちょっと変わった経歴をもつ人物だ。

 LIFE 3.0では、近未来に来るかもしれない超知能(人間以上に高度な知能)時代を見据え、様々な課題提起やそうした課題意識の喚起を促している。
 LIFE 3.0の主題は「超知能を持つAIが出現するまでに人類が取り組まなければいけない課題は?」というものだ。ただ、ここではこの主題やそれに関する議論の詳細は扱わない。その代わり、作中で語られるように、著者が人類の存亡に関する議論に真剣に向きあっている根本的なモチベーションについて、多大な感銘を受けたので読書記録としてこの投稿にまとめておきたい。


 著者によれば、今この瞬間を生きる我々一人ひとりがAIテクノロジーについて真剣に想像を巡らし、議論し、近い未来に起こりそうなそうしたテクノロジーに関連する困難について先回りで対処しようとすることが、我々に課されたこの宇宙そのものと内包する生命体の存在に対する大きな倫理的責任であるという。

 もし仮に上記のパラグラフから「この宇宙そのものと内包する生命体の存在に対する」という部分を除いたなら、これを読んだ人の多くは、「先進的なテクノロジーの実用や応用に倫理的な責任が伴うのは当たり前のことだ、何も特筆するようなことではないではないか」と感じたと思われる。しかし、僕の読み間違いではなく、確かに著者は、

 「この宇宙そのものと内包する生命体の存在に対する大きな倫理的責任がある」

と主張しているのである。何を言っているかお分かりいただけただろうか?もちろん、著者は丁寧に説明を試みつつその主張を展開しているのだが、一文にまとめてしまうと、心の底からこれに共感できる人が地球上に何人いるのかと思ってしまうくらいだ(テグマークさん、一文に圧縮してすみませんっ)。
 しかし、なぜそう考えるのだろうか?それは、人類がこのまま何らかの理由によってこの宇宙から退場してしまうと「この宇宙における生命のドラマはほんの一瞬の輝きにすぎず、その美しさや情熱や意義は、ほぼ永遠に誰も経験することのない無意味なものになってしまう」からだという。逆に言えば、この宇宙に存在する物質で、唯一知的生命体に分類される物質のみが存在するものに美しさや尊さ、儚さといった「意味」を与えることができ、この宇宙そのものをそうした有意義なもので満たすことができるというのである。
 あまりにもスケールの大きな(無限大かもしれない)宇宙というものを対象としながらも、これ以上ないくらい身近な知覚に訴えた動機付けであり、正直ついていけないと感じる人もいるかと思う。そこで、次の画像を見てほしい。

画像1

画像2

画像3

(CREDIT: NASA, Hubble Space Telescope)

画像4

(CREDIT: NASA, ESA, AURA/Caltech, Palomar Observatory)

 どう感じるだろうか?もし、少しでも綺麗だと感じたなら、その素朴な感情の先にテグマークの思想があると考えられる。文字通り、宇宙を感じてほしい。


 誰にも知覚されないものは存在しないことと同義だから、人間が存在してこそ宇宙はその存在を認知され、人間によって美しいなどという「非物理的」な意味を付与されるのである。
 著者はこの意味づけを「この宇宙が息をのむほど美しく、我々を通して生命を得て自意識を持ち始めた」と表現している。もし、あなたが先ほど画像を眺めて美しいと感じたなら、その瞬間に宇宙はあなたを通して、自身が「美しい」存在であるという「意味」を獲得したのだ。そして、それはあたなが知的生命体だからできることなのだ。


 ではもう少し具体的に突っ込んでいきたい。上記の「大きな倫理的責任」は、知的生命体がこの宇宙に人類以外存在しないという前提が必要だ。なぜなら、人類以外に知的生命体が存在するならば、その存在によっていくらでも宇宙に意味を付与することができるからだ。では、どうしてその前提が妥当だと判断できるのか?
 それを説明するために、次の2つの論点を挙げておく。一つは、そもそも人間程度の知的生命体が発生する確率が恐ろしく低い可能性が高いという点だ。この場合の恐ろしく低い確率というのは、この宇宙に人間以外の知的生命体が偶然発生することがまったく望めないほどの低確率だということである。もう一つは、仮に知的生命体がそれなりの頻度で発生した場合に、我々はすでにその存在を認知していることが自然だと考えられるにもかかわらず、現実にそうなっていないということが、この宇宙における人間の孤独を強く肯定するというものだ。
 予め断っておくと、著者はこの仮定が少数派であり、(どの立場の主張もそうであるように)間違っている可能性があることを認めている。しかし、この可能性は現状全く無視できるほど低い確率だと結論することはできず、この仮定が正しかった場合に生じる「倫理的責任」の大きさを考えるととても無視できる仮定ではないという。

 それでは、1つ目の論点から。その上で、まず「グレートフィルター」と呼ばれる考え方を紹介する。これは、何らかの進化的または技術的な困難により、知的生命体の出現が阻害されるというものだ。例えば、地球で生じた下等な生命の出現を例にとっても、宇宙の歴史にとって一大事かもしれない。DNAなどの材料となるアミノ酸は、宇宙空間にも存在が確認されている。しかし、そうした材料からどのように「生命」と呼べるような単細胞が発生したのか。材料があっても、それがDNAのような意味のある配列を作り出すことが果たして「よく起きること」なのだろうか。例えば、太古の海の中でアミノ酸が偶然寄り集まってDNAを作り出すという確率がほぼゼロだというのは、実際に実験するまでもなく自明と言って良いだろう。
 他にも、そうした単細胞中に含まれるリボソームという構造体の困難が挙げられる。リボソームは「遺伝コードを読み取ってたんぱく質を合成するきわめて複雑な分子マシン」だが、これを生成するために別のリボソームが必要になる。そうなると卵が先か鶏が先かという話になり、リボソームが一体どのようにそうした機能を持つ構造体として進化したのか不明だ。あるとき突然最初のリボソームが機能を満たした状態で発生したという主張はあまりにも筋が悪い。
 また、単純な生命の発生だけでなく、高度な知性の発生もグレートフィルターになりうると考えられる。例えば、恐竜は人間がこれまでに過ごしてきた期間の1000倍に相当する時間を地上で享受したが、ついに人間ほどの知性を獲得することはなく絶滅を迎えた。知的生命の発生は、何が条件なのかまったく分からず、完全に偶発的だった場合、我々は奇跡の産物かもしれない。

 2つ目の論点では、人間以上に高度な知的生命体の拡散力に注目する。十分に高度な発展を遂げた知的文明は、テクノロジーの発展やそれを発揮するための資源の確保に向け、自然と勢力を宇宙規模で拡大させるという。確かに、地球上でこれまでの数千年間に、人類がこうした動機に基づく行動で夥しい数の戦争や紛争を繰り返し、勢力争いを続けてきたことを考えると、非常に納得がいく。
 著者によれば、このための物理的な制約は物理法則自体以外にはない。よって、現在人類が抱えている様々な人間らしい課題(政治やイデオロギーに根ざす問題や貧困、身分による格差問題等)を完全に解決していれば、ほぼテクノロジーの制約だけで宇宙空間に生命体(その形態が有機物か無機物かは問わない)とテクノロジーそのものを拡散させることができるという。そして、驚くことにその拡散スピードは光の速度とそれほど遜色ないという。
 したがって、ひとたび極めて高度な知的生命体が誕生した場合、宇宙スケールの時間尺度においては銀河はおろか、この宇宙全体にその文明が拡散し、生命が存在できる星は瞬く間に生命のあふれる星に改造されるという。知的生命体がある程度頻繁に発生するのならば、宇宙年齢138億年もあれば、とっくに地球には地球外生命体がやってきて、コロニーを作っているというわけだ(地球が誕生したのは今から46億年ほど前なので、地球外知的生命体が飛来するまでの時間はたっぷりある)。
 こうした議論と地球に(おそらく)まだ地球外知的生命体がやってきていないことから、この宇宙で人類以外に高度な知的生命体は誕生していない可能性が高いと考えられる。

 以上の論点を踏まえて、著者は「高度なテクノロジーを持った文明がこの宇宙に我々しか存在しないという可能性が、極めて現実的である」と結論している。そして、これまでの138億年間がそうであったように、今後も知的生命体が生まれる可能性は限りなくゼロに等しいかもしれない。
 ここで著者は空恐ろしい可能性を指摘している。地球上の生命に課されたグレートフィルターはまだ弾を残しているというのだ。生命そのものと知性の誕生に関してグレートフィルターが存在する可能性を指摘したが、人類の今後にグレートフィルターが存在しない保証などまったくない。本書によれば、それは超知能をめぐる課題の可能性が高く、しかも今世紀中に我々の前に姿を表すかもしれないという。


 今を生きる我々が現代社会に溢れかえる問題を乗り越え、その存在を賭けてテクノロジーの発展に総力をもって対応する。その先には、文明圏としての広大な宇宙が新たなるステージとして待ち構えているだろう。
 高度に発展したテクノロジーに我々自身が滅ぼされるのが先か、あるいは宇宙のフロンティアが開けることになるのか。現在を生きる我々の行動が、未来を生きるこの宇宙全体の生命の存在可能性に直接つながっているのかもしれない。この意味を我々の取りこぼしによって無意味に帰すのか、あるいはものにするのか。
 この一見望洋とした、しかし見過ごすことのできない意味に真剣に向き合うというのは、生きることに対するまったく新しいモチベーションを与えてくれるように感じる。

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かなり専門的な内容になるが、宇宙物理に関する一般書を読み慣れている人には、テグマークの宇宙論講義を堪能できる彼の前著「数学的な宇宙」もオススメする。個人的には、現代宇宙論のあゆみやその中で宇宙論研究者としての著者がどんな主観的経験を経てきたかが詳細に記述してあり、非常に興味深い。


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