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Twitterですれ違ったあの人、或いは死ねないあなたと私


自殺してしまった、顔の見た事もない人のことが忘れられない。

Twitterですれ違っただけ、というより一方的に見ていただけの存在だけれど。
おそらく男性で、きっと同い年くらいであったであろう。
東京に住んでいたんだと思う。

もう、アカウントは消えてしまった、あの人の事が時折心に浮かんでくる。
本人の似顔絵と言っていた、友人が描いてくれたと言っていた、
あの儚げな、ネモフィラのような青が印象的なアイコンが朧げに浮かんでくる。
1mmたりとも、自殺を止めようなんて思っていなかった。
むしろ、憧れていた。
同世代の人間が、潔く死んでいこうとするなんて。
どうやったら、そんなにシンプルに死んでいけるのって、聞いてみたかった。


死の誘惑は、仄暗い人間には抗い難いものだ。
だが、実行することは難しかった。
時々、彼のことを思い出すのは、きっと羨ましさからだ。
自分も彼のように、パッと消えて無くなれたら。
いまでも、彼が誘ってくれているような気がする。


自分の死に時を決められるのは人間の特権だと思う。
それは、弱肉強食の頂点に立っている我々だから決められることなのだ。
そんな生物学的勝ち組なのに、死にたくなるのも人間だ。

だって、人間は腐るほどいるから。
もう、皆さんの自明の通りだ。

人間はみんな平等で価値があるなんて言うけれど、
そんなものは建前に過ぎず、
みんな値踏みをしている、この社会において、
自分は代替可能な一部品でしかないと感じさせられる。
あるいは、部品にすらなれないと痛感する。

選ばれなかった自分は価値がない、なんて思うから。

私は死ぬこともできずに、今も曖昧に生きている。
彼だって、ほんとは、どこかで生きていて、
舌でも出してヘラヘラとしていてくれれば良いのですが。

死にたいのに死ねなくたっていいじゃない。
死に憧れるのも、同時に生きるために動くのも矛盾なんかじゃなく、
人間の本能だと、自分は思う。


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