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劇場版 『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』各シーン レビュー・考察 ①富野由悠季の考える<オタクはお呼びでない?イイ女>論。(冒頭から5分)

この記事では『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』をシーンごとにざっくりレビューしていきたいと思います。本記事は冒頭から5分までのシーンです。

「オタクはお呼びでないヒロイン」ギギ・アンダルシア

 いきなりケネスと多くの観客に「え、絶世の美人だけど猛烈にいやな女じゃない?」とアッパーカットを加えるギギ・アンダルシアである。しかし、ここで、この食えない女を「ベルトーチカやクェスみたいな性格ブス」「ガンダム三大悪女の候補」「宇宙世紀パパ活女子w」とチープな単語に回収するようなら、この作品を見る必要はないので、回れ右して帰ってよい。

 この作品の象徴となるこの少女ギギは『富野由悠季が考えるイイ女』であって、一部のオタクの妄想を充足するために用意された女ではない。「オタクにやさしくなさそう。嫌い」という感想をネット見たことがあるが、ポイントをついているし、同時に的を外している。富野氏はわざとそういう女をデザインしている点で正解であるし、的を外しているのは「オタクにやさしくない性格ブス」と受け止める感性をもつ受け手に対して彼は女性をデザインしているわけではないからである。

 富野氏がデザインするいい女とは『異性に奥手な僕を受け入れて甘やかしてくれる都合のいい女性』ではない。富野自身は

『最近のアニメや漫画のなかの女性がこうまでステレオタイプになった理由を考えた時に、「あ、アナタたちの『好き』ってこのレベルなのね。だったら、僕は同業者と同レベルじゃないものをやるよ」って、それだけのことです』
『僕の描く女性は自分のセクシャリティ、つまり自分のセックスに対する欲望というものを全肯定しているんです。男の慰み物になる暇なんてないよね、ということ』

ORICON【ガンダムの生みの親】富野由悠季監督インタビュー特集 【富野由悠季インタビュー03】累計発行部数1,100万部超の小説家・富野由悠季が“ペンを折った”理由

 と述べている。

 富野ヒロインたちは性的に委縮し、女性に否定されるのを怖がっているボクを相手にしてくれる女ではない。富野ヒロインは自分のセクシャリティというものを充足させてくれる相手を、積極的に求めている性的主体なのである※1。この点が一部のオタクに、富野氏が描く女性が「生臭い」として敬遠される理由である(なお、こういう生臭さを脱臭していくと、人間性を喪失し、髪がピンクになったり目が巨大になったりディーバとして歌いだしたりして、「性的に自信がないボクを受け入れてくれる存在」という富野氏のいうステレオタイプ=記号としてのアニメキャラになれ果てる)。片方で富野氏が一部のアニメファンを強烈に惹きつけるのは、彼が『人間を描ける』稀有なアニメーターだからである。

 だから声優についても

 「オタクだけが喜ぶようなかわいい声はいらないし、洋画の吹替え的な演技も忘れろといいました」

『Gのレコンギスタ』アイーダ・スルガンの声優演技について

と彼が考える「オタク受け」を、ばっさり切り捨ててしまう※2。(もちろんオタクの全員がそういった「性的な慰み者」としてのキャラクター性を女性に求めているわけではないことは述べておかねばならない)

 なお、こうした性格に加えて、富野氏は主役級のヒロインには『あくまで他者性をもつ別の性的主体でありつつ、男を高次元まで導くミューズ(女神)』という役割をも要求していくところがある(ララァやフォウ、ベルトーチカ、ベラ・ロナ、ネリー・キム、ミック・ジャック、キエル・ハイムなどだ)。『ララァ…私を導いてくれ!』というやつである。ようするに「自分の言いなりにならない他者のままソソッてほしいけど、自分を高みまで導いても欲しい(+ついでにブロンドだと嬉しい!)」というのが富野氏のヒロイン像の1つの原型だ。ギギもこの系譜に当てはまるといえるだろう。

 ことにギギ・アンダルシアは、異様に感性が鋭く、相手の本質を一気にえぐってくるようなコミュニケーションをしてくる少女である。彼女が求めているのは「本質をつく真剣なコミュニケーション」であって、「お定まりの会話」ではない。冒頭シーンでのケネスも分で袖にされているわけだが、彼女はケネスの中に≪世間の慣習や建前で蓋をしてしまって、本当に考えることをやめてしまった大人≫の本質を感じ取ってしまったので、「あなたってパターンしか喋らないんだ…」と興味をすっと失っていくのである。


「オジサン代表」ケネス・スレッグ

 この『閃光のハサウェイ』は〈若さと成熟〉〈青年と大人〉の対立を一貫したテーマとしている。この分かりにくいフィルムは、青年代表ハサウェイとオジサン代表ケネスのどちらが、二人の間で揺れ動く勝利の女神ギギをものにするのか、という三角関係が基本構造なので、それを頭に入れておくと、一気に話が見えやすくなる。(なおギギの二等辺三角形のイヤリング▲は、この三角関係を暗示しているとみてよいだろう)

 連邦軍人として大佐というキャリアを持ち、性的にも成熟した男であるケネスは、青年からオジサンに差し掛かる年齢に設定されている。彼は

”組織のしがらみのなかで、生きているのが大人であり、それから逃げ出すことができないから、軍人をやっているのである『好きに生きていられれば、おれだって、マフティーの仲間になっていたな』”

小説版『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』,P34

と感じている男であり、青年としての燻りをまだ心身の中に感じながら、生きるために大人としてふるまっているといえるだろう。

 「自分はまだ若い」という気もあるケネスは、そんな若いオスとしての自分を試すつもりでギギにナンパにかかるわけだが、数分で玉砕してしまう。大佐までキャリアを積み風采の上がる彼が、こんな小娘に「つまらない大人」として看破されて、面子を失うとは思わなかっただろう。冒頭でのケネスは「若い男」としての精神的カード(ファルス〈phallus〉=男根のシンボルといってもいい)を完全に失い、一種の精神的危機を迎えるわけである。

 トイレから出てきたシーンで「あの娘には俺もあの大臣どもと同じ(つまらないオジサン)ってわけか…」とオスとしての若さを失いつつある「オジサン」なことを痛感するケネスである。(なお、何でトイレから出て手を洗うなど不思議な場面に設定するのか、謎だったのだが、深読みをすれば、用を足しながらで自分のペニスをまじまじと見つめて〈オスとしての自分の硬度〉に感じいるところもあったのかもしれない。)

 一度面目を失った彼が、大人の男としての沽券を回復するためにリベンジにかかるのが、メイス・フラゥワーへのナンパである。「僕は結局、(エキセントリックな小娘ではなく普通の大人としての)君のようなタイプが好きだと気が付いてね」と語りかけるメイスはそこそこ理知的な会話も可能な美人である。しかし、ギギのような〈手の負えないエキセントリック少女ガール〉ではなく、メイスは〈普通の美人の大人の女性〉の範囲に収まる安全な相手なのだ。だからケネスも、ギギの時のような狼狽はせず、「現実が違う(少女趣味のままの女ではいられない)ということを、君はもう知っている…」などと余裕をかました態度でメイスの気をしっかりとひくことができるのである。ここでケネスは「大人の男」としての沽券をやや取り戻し、再起動に成功するのである。

 やっとオジサンとしての面目を取り戻したケネス君だが、早速その沽券を失うことになる。それが次のシーンの「偽マフティーハイジャック場面」である(続く)



※1:なお富野氏は『逆襲シャア 友の会』の庵野秀明との会談の中で、女性観について以下のように語っている。

『(女性というのは)「自分が生きるために」とか「自分が気持ちがいいために」とか「あたしが気持ちのいいセックスの相手はお前じゃないんだよね」と思った時に、パッと移れる。あれは有史以来四千年、五千年の間に訓練された認識論なんですよね。(中略)戦争があったおかげで、男が実験を握れたのよね。握った瞬間に、女がなにをやったかと言うと、自分達は率先して死にたくない。自分たちは子供を孕んでいたから戦争できないからって、男にやらせた。その時、男はバカだったから、それで戦いに勝てば「お前たちを守ったよ」という構造がとれた。その時女たちは「しめた」と思ったの。だから守ってくれるところに飛び込んで見せる。だけど、そいつが自分に相応しいオスでないと思った時に、スッと逃げて行ってしまう女ってそういうもの

庵野秀明編集『逆襲のシャア 友の会』p97-98

 この「男に守ってもらうために、積極的に性的な主体性を発揮する」女性観がジェンダー論的にはやや古臭いのでは…という問題はあるが、この女性観は、本作を含め富野作品の解釈を深めるための重大な補助線である。
 例えば『Ζガンダム』におけるレコア・ロンドを『Ζの中ではまとも』と述べる富野氏の認識(⁉)はここからきており、「レコアは裏切り女!ビッチ!悪女!」と見做す童貞的感覚では理解しにくい。ようするに「シャアとの性愛に満足できないレコアが、当時、より性的に強い男シロッコになびく」のは富野の女性観として当然のムーブなのである(ただし倫理的な行為の妥当性は別の話である。彼女は戦争に女を持ち込んだのでビームサーベルで焼かれるという悲劇的な罰を受ける)。富野氏は全作品を通じて「キミ達、そこんとこわかってないようじゃ、セックスの満足を求めている女に相手にされないのよ!目の前の女性がなにを充足されたがっているのか分かりなさいよ!」という挑発しているのである(!)。

※2:なおこの点でいうと今回の上田麗奈氏の演技は120点といっていいだろう。アニメのテンプレ声で媚び媚びの演技をされたらどうしよう…と不安に思うところを、受けて・作り手の『期待の地平』を上回った造形の水準になっている。彼女の演技は「誰も考えなかったギギ像」なのに「誰もが納得してしまうギギ像」である。ここにPablo Uchida氏の現実感をまとったドライなキャラクターデザインと衣装(重要だ。旧Gジェネ版のアニメアニメしたペラペラの服装で、どんなにゲンナリさせられたか…)が加わって、絶妙な仕上がりになっている。

村瀬修功『ギギは小説を読んでも、本当にわからない女性なんです。(略)それでも、正直なところ、上田さんの声をもらうまではわからない部分がありました。(略)もうちょっとクールなイメージだったのですが、オーディションの時に彼女が他の方々と違う芝居をしていて、「なるほど」と腑に落ちた部分があったんです。そこでギギ像が見えてきました。彼女の演技のリズム感が、小説とも違うギギを生み出したところはあります。』

『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』村瀬修功インタビュー②

 このアップデートによって、ゲームである『Gジェネレーション』シリーズ準拠の「オタク受け」を狙った旧キャラデザ・演技によるギギ像を完全に過去のもととして葬った感がある。

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