そうまでして「大人にならなくてはならない」の?〜「シン・エヴァンゲリオン劇場版」を観て思ったこと〜(ネタバレあり)

6/21(月)、無職の特権を活かして平日昼間の回を選んで、がんばって早起きして(4時就寝8時起床)月曜朝9時からの回で「シン・エヴァンゲリオン劇場版」をようやく観てきた。当日深夜放送の「シン・エヴァンゲリオンのオールナイトニッポン」合わせで観に行った。
月曜の朝一なのにそこそこ観客がいてびっくり。そして、冬の寒さが残るころ上映開始したのに、実際に観に行く頃には夏の暑さが本番に近付いているあたり、鬱が悪化して自分の決断力・判断力が極端に落ちていることを思い知らされる。
封切館に行くのは2019年に「ゴジラKOM」を観に行って以来パンデミックを挟んで2年ぶりなので、西武新宿駅からの短い道のりですら危うかったし、建物についてからも劇場の入り口が見付からないし、チケットを発券してからもスクリーンのあるあたりへどうやって入ればいいのか思い出せないし、大汗をかいて何とか時間ギリギリに予告篇の途中で予約していたシートに座ることができた(ゴールデンウィークにこれも2年ぶりで新文芸坐に行ったときも、池袋駅で東口に出るのはどう行けばいいんだっけ? と少し迷った)。
シートに座ってホッとすると自律神経の関係か汗が一気にぶわっと吹き出してきて、タオル一本では足りないぐらい。この夏はタオルのことでも着替えのことでも苦労させられそうで、今から憂鬱である。
以下、感想を箇条書きで。

まずは。

・長いと聞いて身構えていたが意外と短く感じた。でも予告編も含めれば、朝9時過ぎに入って出てきたのが正午前だったのだから、やっぱり長かったんだな、とも。行きがけにどうしても喉が渇いて、熱中症になったら困るからと自販機で麦茶を買って飲んだのだけど、別にトイレに立つこともなかった。

・そうまでして大人にならなくてはならないの? というのが一番の感想。喪失を経て、夢にやぶれて、理不尽な世界のなかで無理にでも「大人」にならなくてはならない……という命題は今まさに僕に突き付けられているものなので、途中から観ているのがとてもつらくなった。(※僕の場合はより具体的にいうと、死別という喪失を経て、大学教授になるという夢にやぶれて、理不尽な世界のなかで無理にでもどこかに就職して、さらに可能なら結婚して子供を作ることで「大人」にならなくてはならない……という命題。)

・こういう軍艦と軍艦の戦いみたいなのがやっぱり庵野監督はやりたかったんだろうなぁ。軍艦への(というか兵器全般への)フェティシズムがない僕などにはよくわからない世界。

・そこまで無理な(メタな)手法を使わないとエヴァを終わらせられない≒大人になれないなら、僕なんかには大人になるのはとうてい無理だな、と嘆息させられる。

・説明台詞が多くて、とことん懇切丁寧にしてでも終わらせたい(≒大人になりたい/させたい)んだな、というのはわかった。

・アニメとCGのうまく噛み合っていない部分の感じがまだ「気持ち悪い」。もっとも実写とアニメの差はあるにしても「シン・ゴジラ」ではそんなこと感じなかったから、かなり微妙なラインを狙ってやってるのかも知れないけど。

・今回のメタ描写にふんだんに盛り込まれていたセルフパロディ、ないし自己引用。基本セルフパロディとか好きなはずなのに今回はあまりノれなかったのはなぜだろう? やっぱり単純に「大人になれ、喪の作業(精神分析の用語。独 : Trauerarbeit / 仏 : le travail de deuil / 英 : Grief Work)を済ませろ」というメッセージのあまりの強さに、こちらのメンタルに余裕がなくなっていたから?

しばらく、各キャラの話。

・やっぱり好きなのは1番が(終盤でグラサン外して髪型も元に戻した)ミサトさん、2番目が綾波/アヤナミレイ(仮称)、3番目がカヲル君だと思った。2番目と3番目の順位はそのときの気分によって絶えず入れ替わるけど。ちなみに特典でもらったミニポスター(?)は片面がアスカ、片面が綾波のやつでした。以下、カウントダウン形式で好きなキャラについて語っていこうと思う。

・3位:カヲル君。カヲル君はとことん優しい。「やさしい」というやまとことばに「優」という字が当てられているように、優しさが単に他者へのいたわりなどを指すだけでなく、そうした施しを与えられるほど他者より「優越」しているという意味も含めて。今回はついに「渚司令」になっちゃうし。加持さんより上のポジションなのかカヲル君。確かにきみは加持さんより(上に書いたような意味で)優しい。……14年前に「序」を、高校の文化祭をボイコットして(開催に反対する記事を学校新聞に書いて実行委員会と揉めたため)新聞部の仲間と観に行ったとき、ラストにカヲル君がちょっとだけ出てきて、近くの席にいた女子数名がキャアキャア言っていたのを「ミーハーな奴らめ」とバカにしていたような僕だけど、いろいろな挫折を経験したから今だからこそカヲル君の優しさがいろいろと沁みる。あのときの彼女たちよ、正しいのはあなたがたでした。今は僕もカヲル君にキャアキャアしたい。ミーハーだなんて心のなかでバカにしてごめんなさい。

・2位:綾波/アヤナミレイ(仮称)。綾波かアスカか、という例の二択でいえば、昔からなんだかんだで綾波派の僕なのであった。アスカが苦手なのはトラウマを努力で乗り越えようとする(しかし必ずしも乗り越えられない)のが見ていてつらくなるから。逆に綾波は初めから作りものだし(今作ではアスカもそうだけど)、本人もそのことを最初から自覚し、受け容れてしまっている。そこからどのシリーズでも少しずつ人間的な感情が芽生えてきて、しかし残酷なことに「作りもの」から「人間」に近付いたところで悲劇的な結末を迎え、やはり「作りもの」であったことを露呈してしまう。そのへんの悲劇性も含めてひきつけられるところがあるのかも知れない。悪趣味といえば悪趣味だが。すごく抽象的な物言いをすると、ふたりとも最初から「負けている」うち、アスカが負けを認めようとしないで戦い続ける(そして作品によっては結局は負けてしまう)のに対して、綾波は最初から負けを認め、受け容れているのだけれどそれでもわずかな希望を見出そうとせずにはいられない(でも結局はやっぱり負け戦なんだけど)という、その違い。あと綾波が、トウジと委員長の間にできた赤ちゃん(ツバメちゃん)と仲良くしてるのは微笑ましいんだけど、終盤のひたすら心象風景が続くパートでボロボロの赤ちゃん人形を抱えて出てきたことで、「あれはシンジを育てられなかったユイの無念ゆえのことだったのか……」と気付いてからつらくなった。

・1位のミサトさんに行く前に、ここからはしばらく「番外」として他のキャラたちについて語ります。

・番外①:ゲンドウとユイ。いきなりドルヲタに変貌して語るけど、ふたりの馴れ初めが、乃木坂46「君の名は希望」歌詞)と欅坂46「二人セゾン」歌詞)に重なってしまった。どちらも他人との付き合いを拒み、自分には孤独のほうが居心地がいいんだと言い聞かせ、殻のなかに閉じこもっていたのが、それを打ち破ってくれるような相手との出逢いで人生観まで変わっていくのだけど、saison=季節がいずれ去ってしまう(二人セゾン)ように、いずれ別離がやってくる……的な歌詞。もっともただの「出逢い〜失恋」までをうたった恋愛ソングだし、最終的にはどちらも別れを良い思い出として受け容れ、希望を胸にいだいて(君の名は希望)前に進んでいくので、ゲンドウのような壮絶な喪失とは最後の最後でわけが違ってくるのだけど。「二人セゾン」は特に、ユイと出逢ってゲンドウが(自分を外界から遮断する手段だった)イヤホンを外すくだりが「君は突然 僕のイアホン外した What did you say now?」という歌詞と脳内でリンクした。

・番外②:リツコさん。21日深夜に放送された「シン・エヴァンゲリオンのオールナイトニッポン」を聴いて、不覚にも今さらながら、リツコさんもいいなと思ってしまった。それまでは母子揃ってのゲンドウとの爛れた関係とか、悲劇的な立ち位置とか、なんか救いのないポジションにいる人という感じがして、つい敬遠してしまっていたのだけど。もっとも「Q」以降のリツコさんの出で立ちや振る舞いは、なんというか本来なら戦いの前線に出るべきでない人が無理をして出てきているような感じがして、観ていてすこしつらいものがある。ミサトさんとリツコさんをもし一種のバディととらえることが許されるなら(無理があるかも知れないが)、ミサトさんが前衛でリツコさんが後衛というポジション分けがあったはずなのに、今回はリツコさんがずいぶん前衛に出てこなくてはならなかったなというか(この点については次の項目で詳述)。

・番外③:マヤさん。マヤさんは(そのセクシュアリティも含めて)なんか手を出しちゃいけないというか、好感を持っちゃいけない聖域のような感じがして今まで避けてきたのだけど、今作では普通にカッコいいなーと思って観ていた。もともとはあくまでリツコさんを慕う後輩ポジションというか、下手したら昔の特撮ヒーローもの以来よくある「女性オペレーター」枠(昔の特撮ものとか見ていると女性隊員はしばしば出撃せずに基地に残って、オペレーター役に徹することが少なくなかった印象。戦前戦中の無線電信や「逓信」に女性の仕事という側面が強かったことによるものか?)に過ぎなかったのが、年を経るごとにどんどんキャラが膨らんできて「現場指揮官」になった感じ。リツコさんが前線に出てこなくてはならなかったのはいたたまれないけど、マヤさんが(これまでと比べれば)前線のほうに出てきたのは「本来の強さが発揮できてよかったね」と思う。リツコさんは同じ後衛でも、かつてのマヤさんのようなオペレーターポジションではなく「博士」ポジションというところが違う。博士は性別問わず前線に出てきてはいけない。ウルトラマンのイワモト博士とか。ただし最初から前線に出ることが決まっている博士、同じウルトラマンでもイデ隊員みたいなのはまた別なので、いたたまれない気持ちにはならない。リツコさんはたとえるなら、初代ゴジラの芹沢博士みたいに、本来なら後衛なのに前線に出ていかなくてはならない博士なので(芹沢博士と違って死なないけど)どうも悲壮感が漂ってしまい、観ていてつらくなる。あ、でも同じ「芹沢博士」でもケン・ワタナベが演じた「ゴジラKOM」の芹沢猪四郎博士の最期「さらば、友よ」は普通に好きだけどね。あれは愛するもの(=ゴジラ)に身を捧げるという点で憧れの目で見てしまうというか。

・番外④:マリ。自称「乳の大きないい女」ことマリはちょっと都合良すぎるキャラじゃない? という意味でアスカ・綾波・マリのヒロイン3人娘(と暴力的にまとめてしまっていいのか?)のなかでいちばん苦手かも。小型デウス・エクス・マキナ的ポジションというか。物語に無理矢理にでも整合性を持たせるために(そしてシンジを/僕らを/庵野監督自身を「大人にする」ために)外部から持ち込まれた道具立て感がぬぐえない。綾波・アスカ・シンジのねじくれためんどくさい三角関係を崩すためには、新しく絶対的に強い(戦闘能力という意味でも強いし、メンタルも強いし、そして色恋沙汰にも強いので絶対「負けヒロイン」にならない)ヒロインを持ち込むほかなかったのだろうけど。ある意味で碇父子を王手飛車取りみたいな感じでふたりとも救済した存在なわけだけど、そういうとこも含めてズルいというか。そういえば、いつも昭和歌謡を口ずさんでる理由は、過去作でもだいたい想像はついていたし、今作でもぼかしてはあるものの一応は丁寧に明かされた(というか説明された)ね。でも選曲のセンスがあまり僕の好みと合わない。まあ結局のところ僕がマリを苦手なのは、単にメガネ女子キャラがあまり好きじゃないというのもあるんですけど。

・番外⑤:トウジ&ケンスケ(と、ちょっとだけ冬月さん):トウジとケンスケは微妙に位相こそ違うものの本当に留保抜きでいいやつら。こんないいやつらが近くにいてくれるのに「ああなってしまう(ならざるを得ない)」シンジくんはかわいそうというか何というか……。一緒にピアノを弾いてくれるカヲル君もいるし、一緒に将棋を指してくれる冬月さん(今作の冬月さんは出番そこまで多くないし言動も謎めいてるけど、相変わらずカッコよかった)もいるし、シンジくんは(父親を除けば)男運がいいよ。ただ思春期のままのシンジとは違って、2人ともそれぞれのやり方で「大人になっている」ので、そこのところはちょっとひっかかるけど。

・番外⑥:トウジ一家(委員長、ツバメ、委員長の父親)。そんなわけでトウジもケンスケもいいやつなんだけど、トウジ一家が碇一家やミサト一家に対して、あまりにも露骨に「あるべき家族の姿」を体現しちゃってるのは気持ち悪い。トウジが人びとを救う良き医者かつ家族にとっては良き父であり、委員長もあまりにもテンプレ的な良き母・良き妻であり、その間にツバメちゃんという娘がいる。できすぎじゃない? と。「シン・エヴァンゲリオンのオールナイトニッポン」の岩男潤子さんのコメントによると委員長はご丁寧に姓まで変わって「鈴原ヒカリ」になったらしい。あの世界でも夫婦別姓は実現していないのか?……まあこういう家族の在りかたもまた「いろんな家族のかたちを登場させた」なかの1つのバリエーションと言ってしまえばそれまでではあるのだけど。しかしトウジが医者になった設定の割に、劇中で村の人びとに対して明確に医者らしいことをするのってお産(=家族の再生産)の手助けだし。委員長の父親がウジウジしているシンジにブチギレるようなちょっと古くさいタイプの義父で、そこにトウジが「マスオさんしている」のも含め、サザエさん的と言ってもいい家族の姿なのは、本当にそれでいいの? と思わずにはいられない(対照的に一人きりで村の便利屋を買って出ているケンスケ……)。悪口っぽくなってしまうけど、今作でのトウジたち一家って自民党や日本会議が好きそうな家族像なんだよね。それが第3村という壮大な虚構の中で、いつ壊れてもいい儚い存在に過ぎないものとして描かれているのもまた確かなのだけど。そのあたり、やっばりしたたかだなぁ。

・番外⑦:トウジの妹(サクラ):トウジの妹、なんか「〜せんといてくださいよ」が持ちネタのネタキャラになってない? でも、今作でオペレーター役になっているピンク髪の子(名前わからない)がいちおう碇父子以外で喪失を受け容れきれていないキャラとして登場したのは意外と大きな意味をもつ(後述)のかも知れないと思った。そこにトウジの妹が「喪失を受け容れようとしつつもまだ心情としては受け容れられずにいる」微妙な立ち位置のキャラとして絡むという展開まで含めて(だからただのネタキャラじゃないんだけど)。

・番外⑧:加持さん。山ちゃん若い娘好き過ぎじゃない?……という中の人ネタはさておき。加持さんは結局、種の(それも特定の種だけじゃなくみんなの)保存を願っていたんだねえ。そういう目的は紛れもない「良い人」の思想なんだけど、その方法が最終的に「自己犠牲」という形をとらないと実現しないのはどうなのか? という思いはずっとある。自己犠牲って、自分はそれでいいかも知れないし、なんならヒロイズムにひたることさえできるかも知れないけれど、遺される者たちにとっては本当に大きな重荷だし、深く刻まれたスティグマになるからね。

・番外⑨:アスカ。途中まで獅子奮迅の大活躍だったけど、どうも昔から今ひとつ好きになれないんだよなあ。とにかく強くなることで喪失感を乗り越えようとするというのがマッチョな価値観と重なってしまって、どうしてもしんどくなる。カヲル君の優しさ=「優越」としての強さ(常に余裕をもって生きているからこそ他人に惜しげもなく施すことができる)とは違って、アスカの求める「強さ」はどうしてもマッチョ的なそれに見えてしまう。どうも僕は「綾波とアスカ」という2大ヒロインを客観的=客体的に見ることができず(すなわち「萌え」の対象にならず)、むしろ自分を重ねて見てしまうところがある。綾波の無知とも見える悟りきったはかなさが「かくありたいという理想の自分」に近いのに比べて、アスカは「かくあらねばならないと(精神分析でいうところの超自我に?)強制された自分」のようでつらいというか。……あと今作では綾波みたいにいっぱいアスカがいたり(それで惣流から式波に姓が変わったの?)使徒になってみたり、頑張りすぎて解釈がついていけなかった。でも旧劇のラストを反復して、今度は自慰的なシンジに対する「気持ち悪い」の拒絶ではなく、大人になって対等に向き合ってくれたシンジとお互いに気持ちを伝えあえてよかったね、という感じ。

・番外はここまで。では第1位をどうぞ。

・1位:ミサトさん。ミサトさんは「Q」の感じから少しずつ変わっていって、終盤では元の葛城ミサトが帰ってきたような感じがして嬉しかった。そしてそのミサトは旧劇場版までのミサトとはまったく違う。なんていうか、かつての「だらしない中にもどこか母性も感じられ、シンジくんを甘えさせてくれるのだけど、同時に彼にとって性的な対象でもあることを理解して行動している」という「母親にして性の対象」みたいな位置付けから大きく変わったと思う。今作では明確にシンジではなく加持さんのパートナーだし(パートナーになってすぐ別離が来てしまうわけだが)、母親でありながら「母親としての役目」は捨てて、加持さんのやり残したことを引き継いで完遂しようとしている。シンジにとって「母にして性の対象」から「同じ目的に向かって一緒に戦う仲間」になったっぽい。エヴァの根幹ともいえる精神分析的な(碇一家の)父・母・子のこんがらがった三角形と、ミサトたち家族の(喪われた)父・(不在の)母・(ひとりでもみんなと協力して生きていける)子という三角形は、ある意味で碇一家のそれとちょうど陰陽の対をなしているのかも知れない。主人公サイドが「陰画=ネガ」で、ミサトさんサイドが「陽画=ポジ」というひねりを効かせてあるのは、これもしたたかというか、いかにもというか何というか。

・でもミサトさんはそれで満足かも知れないけど、それじゃ息子さんにシンジくんよりつらい経験させるんじゃない? と思わなくもなかった。「自己犠牲」という意味では悪い意味で加持さんの跡を踏襲してしまったというか。でも息子は幼少期に母を喪い、幼少期から思春期にかけて父が不在だったシンジと違って、生まれる前から父を喪ってるし、母を喪うときにはもう年齢もそれなりに行ってるし、そもそもシンジの経験した「母の喪失・父の不在」とは逆の「父の喪失・母の不在」で、しかも両親とも最初から知らないのだから話は別かも知れないけれど。……あれ? 長々と書いてるうちにだんだんミサトさんそこまで好きじゃなくなってきちゃったかも知れないな。

・だいいち基本的にあの世界の人間はみんなかなりハードな喪失を経験してるわけで(もっとも上述の「ピンク髪の子」のように喪失を受け容れきれないでいる人もいるにはいるので、そこは大いに考察されねばならない点のような気がするが)、シンジ&ゲンドウの碇父子だけが特別に喪失に弱いだけとも言えそうだ。とはいえ身も蓋もないことを言ってしまえば、だからこそエヴァンゲリオンという物語が展開するので、この父子は喪失に弱くなくては始まらないのだけど。主人公特権?

再び「そうまでして大人にならなくてはならないの?」問題。

・ラストシーン、シンジのことを自分に引きつけて考えたとき、今度「乳の大きないい女」を喪ったらどうするの? と思った。もう喪失との向き合い方がわかったから、今度からはうまくやれるはずってこと? でも、一度喪失を経験した人って、『めぞん一刻』の管理人さんじゃないけど、相手に「わたしより1日でもいいから長生きしてほしい(=わたしを看取ってほしい、もうわたしに喪失を経験させないでほしい)」というメンタリティに陥りそうな気がするのだけれど。

・「子供時代のトラウマ」ってそこまでして解消しなきゃならないものなの? 精神分析がモロにそれだし、今でもある種のカウンセリングなんかはそんな感じらしいけど。でも、もし解消する手立てがなかったらどうすればいいの? シンジやアスカやゲンドウみたいに「子供時代のトラウマ」を自分で見付けられた人たちはいいけど、見付けられない人間は? なにも根本的な解決にならないとわかっていても、自分で自分に「オトシマエをつける」しかないの?

・監督も「大人になった」はずなのに、それでもやっぱり子供だからシン・ウルトラマンやシン・仮面ライダーを作るんじゃないの? 自分のなかの子供の部分(インナーチャイルド的な)を引き受けるのもまた大人になることだ、っていうんじゃあまりにも通俗的すぎない?

・現代国語の評論問題にでもされそうな陳腐な問いを許してもらえば、現代においてそもそも「大人になること」は可能なのか? という気持ちはある。3.11ほかを経験したことで前面に出てきた、「いつまでも子供みたいにウジウジしていないで、いい加減に喪失を受け容れ、喪の作業を済ませ、生きるべき者は(自分も含め)生きさせる/生きていくのに全力を尽くすこと」が大人になることなんだというのが、庵野秀明のメッセージだと言われてしまえばそれまでのような気もするが、それはそれで身も蓋もなさすぎるのでは? とも思う。喪の作業(Trauerarbeit / le travail de deuil / Grief Work)って精神分析で出てくるもろもろの概念のなかでも、個人的にはトップクラスに難しいものだと思う。解釈も難しいんだろうけど、実践はもっと難しい。喪失のあとに「大人」として生きていくだけの力を獲得する(ないしは取り戻す)には相当な苦痛が伴うし、人によってはかなりの時間がかかるんじゃないか。最悪の場合、喪ったものの後を追うことを自ら選び、周りの人びとに「喪」の悲しみや苦痛をを広げて/伝染させてしまうということだって充分に考えられる。

最後に。

・観終わった直後は、その「喪失を受け容れて大人になれ」というメッセージがあまりにしんどかったせいか、やっぱり僕はゴジラのほうが好きなんだな、などと思ってメンタルの安定を保たなくてはならかった。

・しかし今の自分にとって短期的な、あるいはプラグマティックな意味で必要だった映画は、いっときでもつらい現実を忘れさせてくれるという意味で、このあいだYouTubeで無料配信を見た「直撃地獄拳 大逆転」だったり、先ごろテレビ放送された「ゴジラKOM」だったり、ゴールデンウィークに新文芸坐で観た怪獣映画4本立て(「キングコング対ゴジラ」「キングコングの逆襲」「ゴジラ対メガロ」「三大怪獣 地球最大の決戦」)オールナイトだったりしたのかも知れない。だが、それら娯楽作品は依存性こそないものの(いや、ひたすら娯楽の中に現実逃避し続けるようになるとすれば、それはやはり依存ではないか?)当座の苦痛を忘れさせるだけの阿片のようなものだった。その意味でこの映画を観ることによって得たのは娯楽への逃避ではなく、大きな問いや強いメッセージを突き付けられることだったという点で、長期的に見れば自分の生き方を変えうるかも知れない重要な体験になったともいえそう。その問いなりメッセージなりを活かして「大人」として生きていけるとすれば、の話だが。

・自分はまだスタートラインにすら立つ前なのに勝手にもがき苦しんでいるだけなのかも知れない。

・とにかく、自分は今後どうやって生きていけばいいんだと困り果ててしまった。

・もし大人になれないとしたら、もし喪の作業を終えられないとしたら、自分で自分のしたことにオトシマエをつけるためには、自分で自分のことを裁くしかないのではないかとも思う。すなわち自裁

・でもなんだかんだ「シン・ウルトラマン」も「シン・仮面ライダー」も楽しみにしてますよ。たとえ駄作になろうとも、観ます。そのときまで生きていられたら、ですが。



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