共感を生むコンテンツは「手紙化」していく
cakesのコンテンツで、燃え殻さんと一木けいさんの対談を読んだ。
そこでは、一木けいさんの創作の源として「自分へのセラピー」であったり、「悩める10代に届かせたい」であったり、ということが話されていた。
一木けいさんが影響を受けたという椎名林檎さんも、以前のインタビューで近しいことを話している。
ウェブメディアの仕事をしたり、記事を作ったりしていて、気づくとついつい抜けてしまうことがあるのだけど、ぼくらが送り出すものは「ページビュー」という名のロボットやプログラムが読んでいるわけではなく、そこにはひとりの人間がいる。
(あっ、Googleのクロールとかbotとかもあるのはわかりますが、ここは、寛大に思ってください)
ぼくは以前にいたクラシコムという会社で、「たったひとりに刺さるコンテンツは、きっと多くの誰かにも届く」というスタンスを教わった。そのひとりが「記事を作っている自分」ということもある。
多数の人に受け入れられているものでも、顔が特定できるほどの「あの人」だったり、とても狭い範囲の「誰か」であったりを意識した“結果”ということはあるのだろう。むしろそれができているほうが、言葉や温度が気を使われたものになり、確かになっていく。
最近だと、ポルカドットスティングレイの曲作りはツイッターの声を拾ったマーケティング的思想に基づいている話も面白かった。
https://www.buzzfeed.com/jp/yuikashima/polkadotstingray
これはたぶん、日本が総中流家庭となり、そこに生きる人々の暮らしの足並みがある程度揃ったからこそ、「同じ想いを抱く誰か」の母数が増えたせいというのもあるんだろうか。
ともかく、「共感なんて得られないのはわかってるけど、とにかくあなたにさえ届けばいい!」というコンテンツこそが多くの共感を生んでいる。ふしぎな図だけれど、わからなくもない。
暮らしの足並みが揃った国民が、共通性のある思いを抱えている背景がある前提とするならば、その一部分の「誰か」に宛てたコンテンツが広まる可能性はあるとおもう。
冒頭の話に戻ると、ウェブメディアも、記事も、愛すべき「誰か」を浮かべることが、結果につながることがあるのかもしれない。つまり、コンテンツの手紙化が、ひとつの道筋になるのだ。
この日記も、似たようなところがあるなぁ、とおもっている。最近、ちょっと日記ブームなところがあるのかも?と感じているけれど、日記はなによりも「目の前の自分」のために書かれたものだから、この仮説に当てはまる部分もある、はず。一木けいさんではないけれど、セラピー的な要素も多分にある。
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