見出し画像

「クラシックには流行り廃りがないから素晴らしい」説に真っ向から反論したい

こんにちは,音楽教育学者の長谷川です👓

さて,本日のタイトルですが,違和感を持つ人も多いと思う。「クラシック音楽は流行り廃りがないからこそ素晴らしい。それがクラシック(古典)たる所以なのだ。」という言説はいろんなところで見る。

そして,クラシック愛好家である僕は,この説に全く同意しない。さぁ本日も語っていきましょう。


1.「流行り」とは差別化である

例えば,ファッションには流行り廃りがある。肩パッドバキバキのタイトなスーツを着て前髪が「すだれ」みたいになってるバブリーな女性のファッションは現代には馴染まない。このファッションは廃れてしまったのだ。

このような当時の女性ファッションがメディアに掲載されると,若者は「うわ〜だっせぇ〜昔の人センスねぇなぁ」と感じるだろう。だが,事実として,当時はああいうファッションがおしゃれだと見なされていたのだ。昔の人がダサかったのではなく,おしゃれの基準が変化したのである。昔の人から見れば現代のオーバーサイズのトレンドはダサく見えるのだろう。

この事例は,ファッションにおいては「良さや美しさの基準」が10年単位くらいで変化している,という事実を示唆している。だからこそ,ファッション業界は新しい商品を売り出すことができる。我々も,毎年いろんな服が欲しくなる。

では,もしファッションに流行り廃りがなく,ここ30年間ずっとバブリーファッションが流行っていたとしたらどうなるだろうか?

間違いなく洋服は売れなくなり,ファッションは斜陽産業になるだろう。だって,1年間分のバブリーファッションコーデを揃えてしまえば,それ以上買う必要ないってことになるもんね。ただでさえ技術革新によって「破れにくい」とか「しわにならない」とか機能面がどんどん充実していっているのだ。劣化による買い替えの必要性は徐々になくなってきている。流行り廃りがなければ,服は車や家具みたいに「めったに買いなおさないもの」になってしまう。ただでさえ去年買った洋服ってあんまり着ないじゃないですか。ファッションが好きな人は,「かっこいい」の価値観を毎年少しずつアップデートしていくからこそ洋服を買い続けるのである。ファッションの価値観は資本主義と親和性が高いと言えそうだ。

で,「そもそもなんでファッションでは流行り廃りがあるの?」という話になるわけなんですが,これは至極単純で,おしゃれとは差別化だから,という回答になる。

このロジックについては,以前も僕のnoteで取り上げた,ファッションバイヤーのMB氏による説明が本当にわかりやすい。この人天才だと思う。

面白いのでぜひ上の動画を見て欲しいのですが,お時間のない方のために要約しよう。MB氏によれば「おしゃれな状態=周りの人と何かが違う状態」であり,ある時の最先端のファッションもマスに広がってしまえばそれはおしゃれではなくなってしまう。例えば,ハイブランドが続々と黒スキニーを使ったルックを発表したとする。そうすると,ファッション感度の高い一部のアーリーアダプターが「黒スキニーかっけぇなぁぁ」となり,黒スキニーを履く。その頃多くの人はインディゴデニムのジーンズを履いていたので,黒スキニーを履いている人をみて,「あれ?あの人普通の人とちょっと違うな,おしゃれだな」と評価するようになる。その5年後くらいにオシャレにちょっと興味のある大学生とかも徐々に黒スキニーを履き始め,10年後にはしっかりマスに浸透し,最終的に街にでるとみんなが黒スキニーを履いている状況が出来上がる。そうして,10年前に最先端だった黒スキニーファッションは今や周りと差別化されない「おしゃれじゃない状態=周りの人と同じ状態」になる,というのだ。

ちょっと話はそれるが,Twitterとかで「量産型ファッションだせーwこれだから流行りに乗るの嫌なんだわwみんないっしょじゃんw」みたいなのをみるが,これを発言している人は「流行り」の概念を理解できていないんだろうなと思う。むしろ量産型ファッションが量産される前の最先端の価値観から自分が10年乗り遅れていることを自白しているのである。すでにマスに広がったファッションはもはや「流行り」ではない,ということだ。

したがって,おしゃれな人のファッションはどんどん変化していく。黒スキニーを最初期に取り入れていた人は,黒スキニーがマスに浸透する頃には黒スキニーにはとっくに飽きていて,今度はワイドスラックスを履いていたりする。そうすると今度はマスが10年遅れてワイドスラックスに適応するようになるのである。おしゃれは周りとの差別化によって生み出される相対的な概念なのである。

このロジックはファッション以外の「流行り」にも援用可能だ。例えば「最近アンビエント流行ってるよね〜」という話が一部の音楽好きの間でなされている時,最先端のクリエイターはその5年前くらいにはアンビエントの要素を用いた音楽を作ってすでに評価されている。そして,5年前のその評価は,アンビエント風の音楽が既存の市場の中でうまく差別化されていたからこそ得られたのだ。このようにして流行りが生じる。ファッションやポピュラー音楽には,常に周りとは違うものを生み出そうとする「今ここ性」が存在しており,その「今ここ性」を担保しているのは「良さや美しさの基準が可変的である」という「流行り(=トレンド)」の概念であり,流行りがあるからこそビジネスは回り続けるわけだが,果たしてクラシック音楽はどうか?

2.クラシック音楽にも流行り廃りは存在した

さて,タイトルにも書いたとおり,僕は「クラシック音楽には流行り廃りがない」という言説に反対したいわけだが,僕があれこれ言うまでもなく,そもそもクラシックにも流行り廃りはきちんと存在していた。

例えば,ルネサンスの時代においては,音楽が激しく盛り上がったり劇的に変化したりしない,常に穏やかな時間が延々と流れるいわゆる「均整美」の音楽がしばらく流行っていた。そして,そういう音楽がひとしきり作られた後,次にでてきたのは,即興的に装飾されたきらびやかな上声部とそれに負けじと張り合う低声部がぶつかり合うちょっと派手な音楽だった。均整美の音楽を信奉していた旧世代は,そういう派手な音楽を「なんていびつな音楽なんだ!けしからん!」ということで「バロコ(歪んだ真珠)」と評したという。これが「バロック」という言葉の成り立ちに関する一説であるが(諸説あり),これも「良さや美しさの基準」の転換が生起した一種の差別化の事例であろう。もちろん当時の作曲家の多くはクライアントワークで曲を書いていたので,音楽様式の変化は作曲家の創作的な意図による差別化にのみ起因するわけではないが,そんなことを言い出すとそれはファッショントレンドの場合も同様に社会情勢に影響を受けている(例えばネット通販の一般化やCOVID-19のパンデミックはファッショントレンドに間違いなく影響を与えている)。まぁとにかく西洋音楽史における美の価値観は結構変わってきていて,普遍的というにはあまりに流動的だったということだ。少なくとも,メンデルスゾーンがバッハの曲を再演するまで,「バッハは音楽の神様だ!普遍的な音楽だ!」なんて誰も言わず,黙々と「今ここ」の自分を信じて音楽を作っていたのである。

こうやってみると,西洋音楽史上でさえも「普遍的な美」などというものはなく,価値観の転換がもたらす流行り廃りが存在していたことがわかる。ただ,クラシック音楽の流行りが推移するには100年くらいかかる。だからファッションのように肌感覚として理解することが難しい(10年単位の流行り廃りでさえ,俯瞰して理解できる人は少ないだろう)。ましてや,今日の演奏会で演奏されるのは多くの場合現代の音楽ではなく,はるか昔の音楽だ。流行り廃りを当事者として感じるというより,歴史上の流行りのサンプルを博物館的に鑑賞するスタイルになる。現代の演奏会は,バブリーな洋服やヒッピー風の洋服を身に纏ったモデルが闊歩するオムニバスのファッションショーのようなものだ。

で,現代の日本に住む我々がなぜ「クラシック音楽は普遍的な芸術だ」などと思い込んでしまっているかというと,これは他のnoteでも語ったが,明治政府が「近代化=西洋化」を標榜してクラシック音楽を輸入した際に「クラシック音楽=普遍的な芸術」というイメージを植え付けからである(参考までに下にその記事を貼っておきます)。西洋列強に追いつくため,西洋化政策をなるべく早く押し進めるために政府が行った文化レベルでのブランディングだ。その効果は絶大で,令和に生きる我々でさえ,自分たちが聴いているもの・演奏しているものものが「流行った音楽の歴史的サンプル」だと認識できないのである。

3.流行りが機能しないクラシック音楽ビジネスをどう回すのか

ここまでの話をまとめると,クラシック音楽にも本来流行り廃りがあったが,現代の我々は「クラシック音楽は流行り廃りのない普遍的な芸術である」と認識している,ということになる。

僕自身は,周りの人がクラシック音楽を普遍的な音楽だと信じようが,数多ある民族音楽のひとつであると冷静に認識しようが,どっちでも構わない(公の音楽教育に携わる人間には後者の認識をもってもらわなければ困るので,授業ではこのことを徹底して教える)。だが,クラシック演奏家のビジネスについて考えていくと,前者がデフォルトの現状には頭を抱えてしまう。

つまり,クラシック音楽の普遍性神話が幅をきかせればきかせるほど,クラシック音楽ビジネスの市場は狭くなるのである。「過去の西洋で流行った曲のサンプルパック」に「普遍的芸術」というラベルが貼られることで,お客さんはそこで売られているのが何なのか訳が分からなくなっているのが現状だ。だって,バブリーファッションのショーをみて「これが普遍的なファッションなんです!」って言われも,それがことさら好きな人は別として,普通の人は感覚的に理解できないじゃないですか。そして演奏家もみんなして「普遍的芸術」を目指して同じ曲を同じように演奏するので(一般人にはそう聴こえるはずだ),もはや差別化など生じない。周りより上手い人が勝ち,それより下手な人は負ける,という一元的な評価基準のみが機能する多様性とは程遠い市場が誕生するというわけだ。

そう,「クラシックは流行に左右されない」というのは実は褒め言葉ではない。むしろ,「流行がないから市場が拡大しない・多様化しない」というイタいところを突いた指摘でもあるのだ。

で,僕がこのnoteで言いたいのは,「クラシック音楽ももっとリアルタイムの健全な流行りを作っていけば現状は好転するのでは?」ってことなんですよ。

例えば,若手作曲家が新曲を書いたとしよう。C durで対位法を駆使した綺麗な曲だ。そうすると多くのクラシック演奏家は「え?今どき調性ありの対位法?バッハの2番煎じどころか100番煎じじゃんwだったらバッハ演奏するわ」と評価するだろう。

でもね,僕はこれが不健全だと思うわけです。

さぁここでフラットな視点を持ってください。過去の作曲家を神格化して愛好するクラシック音楽家の視点をいったん捨てて,野球とかサッカーに夢中なその辺の中学生の気持ちになって,冷静に考えてみてください。「なんで300年近く前にヨーロッパで作られた曲をわざわざ演奏するの?今日本に生きてる人の音楽でいいじゃん」の方がどう考えても一般的な感覚じゃないですか?

ファッションでもトレンドは回ってくる。例えば,先述のMB氏の動画によれば,一昔前のノームコアのトレンドが最近落ち着き始め,今後は徐々に装飾性のあるファッションが流行ってくるらしいのだが,実はこれは70年代のヒッピー文化のリバイバル的側面がある,というのである。でも,次に流行る装飾性のトレンドは,当時のアメリカに見られたヒッピー文化の完全な模倣ではない。「現代性」や「日本性」といったエッセンスが至る所に散りばめられ,ローカライズされた上でのリバイバルなのである。過去の単なる再生産ではなく,既存曲を編集し新たな価値を生み出すDJのような,クリエイティブな営為がそこにはある。

今日においても「バッハのもろパクリ」の作品は当然ながら評価されないだろう。でも,そこに現代の日本人の価値観に訴えるローカライズのセンスがあれば,新たな価値を生み出すことができる。そして,それをクラシック音楽愛好家や演奏家も積極的に評価するような,そんな風土が必要だろう。「バッハの100番煎じ」,上等じゃないですか。普遍性の神話を盲信して「普遍的な音楽」なるものを目指すより,あるいは,これまでにない全く新しい音楽を生み出そうとして袋小路に迷い込むより,よっぽどクリエイティブな作業だと思う。

4.まとめ

以上が「クラシックには流行り廃りがないから素晴らしい」説に真っ向から反論したい僕の主張でした。いかがだったでしょうか。

過去の作曲家をリスペクトし,その精神を現代の聴衆に届けるといういわば霊媒師のような再現芸術職人も世の中には必要だ。だが,もしクラシック音楽市場をもっと盛り上げようとするのであれば,価値観がどんどん流動するようなシステムも合わせて必要だと思う。いつまでも作曲家の肖像画を音楽室の後ろに貼っている場合ではない。「今ここ性」に根ざした,ローカリティほとばしる音楽にフィーチャーしなければ,クラシック音楽は一般人にとってニッチな骨董品の域に留まるだろう。その点を打破するための視点の一つが「流行り」だと僕は考えている。同世代の音楽を黙殺し,過去のヨーロッパに「普遍性の神話」を求めている限り,クラシック音楽を現代日本の市場で回していくことはできない,と思うのであった。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?