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旅の余韻 9月1日

昨日松本から戻り、三春での日常の時間の流れに歩調を合わせる。
どちらが早い、遅いというのではないのだけれど。

どこかへ出かけて戻って来るといつもそうなのだが、
身体はもうそこにあるというのに、意識の一部はまだ
置いてきぼりになっていて、ヒタヒタとその辺を漂いながら
時間をかけてゆっくりゆっくりと戻り、しばらくしてようやく
そのわずかなズレがピタリと合わさる感覚なのだ。
遠い目をしてぼんやりしてしまうというのか。
休み明けでお店も始まっているというのに、いかん、いかん。

お土産に買ってきた和菓子屋 藤むらさんの
「れぇずんくっきい」
一見、ボリュームがあるようだけれど、ふわっと軽く、
あっという間にお腹の中へ。コーヒーとも相性良し。
藤の包装紙も、箱もない小さな包みも感じがいい。
器はもちろん宮下さんの。
籾殻燻炭を使った菓子皿は、サラサラとした手触りが気持ちいい。
「くっきい」の生地の黄色がよく映える。
コーヒーで頭をシャキッとさせるつもりが、こうして旅先の美味しいものでさらに旅の余韻をひきずってしまっている。


宮下さんに限らずだが、作家の方々の個展の際には〇〇を多めに、と言うことはあっても、事前に〇〇を何個、といった注文の仕方はしていない。特に宮下さんに関しては、もうずいぶん前からアイテムも数もできたものの中で、とお任せしている。それでも初めの頃は「あんなものが欲しい」「こんなかたちはどうだろう」などと言っていた時期もあったように思うが、もう忘れてしまうくらい前のこと。
その年の気候、手に入った漆の状態、色、暮らしと地続きのしごとから生まれるその時々のものたち。パッと見てわかるこれまでとの大きな変化は見受けられないかもしれないけれど、同じようでいて違う、わずかだからこそその変化を見逃さず、ないがしろにせず、そのままの、そのときの宮下さんの漆の器であって欲しいという思いから。

私の中では宮下さんの漆の器は農作物にも近いのではないかと思っている。同じお米や茄子でも昨年と今年では違うように、漆自体も採れる量も木も違えば、産地だって違うし、土台となる木地さえも。それらを作り手がどう扱うかによって出来上がる器が違うのも当然で、そう考える方が私にとってはしっくりとくる。それに器そのものが美しいだけではなく、農作物どうしで相性が良いからか、そこに食べ物を盛り付けたときにはより一層美味しく感じられる。決して華やかさはないのだけれど、器のお役目としての本来の美しさがそこにはあり、使ってみたい、使い続けたいと思わせてくれるのだ。

梨やぶどうといった秋の果物の収穫が始まり、ピカピカの新米が出回るのもあと少し。今年の漆の器はどんな味わいの顔を見せてくれるのだろう。

9月1日(金) 最高気温35℃ 最低気温24℃
まだまだ三春は蒸し暑かった一日。