【劇評224】勘九郎、七之助、松也が作りだすドラマの余情。串田和美演出の『夏祭浪花鑑』。
活き活きと呼吸する人間として、ひとつひとつの役を見直していく。
串田和美演出・美術の『夏祭浪花鑑』は、芝居には完成形などはなく、常に先を追い求めていく精神に貫かれていた。
夏の入道雲が、空を覆っている。
上手には明るい日差しを浴びて鳥居が見える。よしず張りで囲われた辻に、遠くから祭り囃子が聞こえる。蝉時雨が降り注いでいる。
往来する人々がいる。材木を持った男は、運び損なって、地面に落としてしまう。三味線を持った男が通りすぎていく。
神主が現れると、人々は辻に立てられた御幣を囲んで祈る。祭りの無事を祈願しているのだろうか。蝉の音、急にはげしくなる。
開幕前にこうした演出がほどこされることによって、『夏祭浪花鑑』は、季節と時間を強く意識させる。
発端から、お鯛茶屋までを第一場としているが、笹野高史の舞台番笹平によって、団七(勘九郎)、団七女房お梶(七之助)、一寸徳兵衛(松也)を簡潔に紹介する。
さらには、傾城琴浦(鶴松)と恋仲になった玉島礒之丞(虎之介)を無事、逃がすために人々が苦心する物語であると、「筋売り」をすませてしまう。
第二場は、住吉鳥居前の場。喧嘩のため牢に入っていた団七が放免になるところを、懇意にしている釣船の三婦(亀蔵)が迎えにきている。
この場の焦点は、団七と徳兵衛の出会い、そして高札を使っての達引にある。やがて、息子の市松(長三郎)を釣れて戻ってきたお梶が止め女となって、三人で決まる様式美を見せる。
『夏祭浪花鑑』は、写実を基本としながらも、定式となった決まりが多い。写実と時代の振れ幅を見せる。この要諦をはずさずに、写実については、これまでの型にこだわらずに、役者の活き活きとした気持を大切にしていく。この串田の方針にぶれがない。
序幕第三場は、釣船三婦内の場。美しいお辰(松也)には、若い礒の丞を託せないとする三婦の注文に、お辰が鉄弓で自らの頬を焼く件りが見どころとなる。三婦の叱責を聞きながら、火鉢の鉄弓を見込む芝居が落ち着いている。
お辰は、一寸徳兵衛の女房だから、松也は、夫婦をひとりで演じ分けることになる。めずらしい配役だけれど、度胸と気風のよさで結ばれている似たもの夫婦を、ひとりで演じるのは理にかなっている。
また、若い時代に女方を修業した松也に余裕が備わってきたので、お辰もしっくりくる。
亀蔵の三婦は、老けてつくっているが、声が若く大音声なので、歳はとっても若い者にひけをとらない侠客の凄みがある。
三婦女房おつぎも難役だが、歌女之丞の控えめな巧さが場を支えている。
さて、第四場は長町裏の場。「泥場」として知られる場だが、一面の泥にもだえ狂う従来の演出にこだわらない。泥と井戸の水のスペクタクルよりは、人間の業の怖ろしさを伝える方向で徹底している。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。