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【劇評173】アメリカの六〇年代と現在を結ぶ。深い考えに沈ませるミュージカル『violet』。

 この四月、コロナウィルスの脅威のために、ミュージカル『violet』(ジニーン・テソーリ音楽 ブライアン・クロウリー脚本・歌詞 芝田未希翻訳・訳詞 藤田俊太郎演出)の日本版公演が中止になった。
 悲運なと思ったが、まさか半年を待たない九月に、三日間とはいえ公演が実現するとは思ってもみなかった。
 制作にあたる梅田芸術劇場の並々ならぬ思いがあってのことだろう。

 私はロンドン公演を観ていない。
今回、はじめてみる『violet』は、人間存在の本質に深く踏み込んでいる。

 まずは一九六四年の中西部アメリカ。ベトナム戦争前夜の庶民の世界を描いている。
 十三歳のときに父親が操る斧で顔に傷をおった少女ヴァイオレットは、その死の三年後、タルサに向かって、グレイハウンドバスで旅立つ。
 この地を拠点とするテレビ宣教師に、その傷を治し癒やしてもらいたいと真剣に願っているからだ。
 ヴァイオレット(唯月ふうか、優河 ダブルキャスト)が、その旅のなかで、偶然乗り合わせた黒人の兵士フリック(吉原光夫)と白人兵士モンティ(成河)と、愛憎にあふれた三角関係に陥る。

 この旅のなかで、少女時代のヴァイオレット(稲田ほのか モリス・ソフィア ダブルキャスト)と父親(spi)の思い出が交錯する。
 保守的な老婦人(島田歌穂)とも交錯する。ついにめぐりあった宣教師(畠中洋)は、疲れ切ったショーマンに過ぎなかった。

  アメリカの六〇年代がかかえていた深刻な問題が描かれると同時に、政治的、社会的な文脈ばかりではなく、個人の精神が病み、疲れ、蹂躙されていたことを描いている。

 当然のことながら、これは当時のアメリカを描いた風俗劇であると同時に、人類がかかえこんだ普遍的な問題を扱っている。
 ヴァイオレットが顔に負った傷とは、私たちにとっての「何」にあたるのかが、劇中で常に問われている。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。