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藤田俊太郎 師・蜷川幸雄の思い出。その6(完結編) 蜷川幸雄と女優。大竹しのぶとの葛藤。

長谷部 蜷川さんは、唐十郎さんとか清水邦夫さんには、かつて恩があると思っていました。劇作家は恵まれませんから、晩年は、ふたりの作品を、自分が演出し上演して、上演料が入るようにしなきゃいけないって思ってたのかな。

藤田 それは、公に言っていましたね。唐さんの作品、清水さんの作品をどんどん大きい劇場でやりたいって言ってましたね。立場が逆転しているとは、蜷川さんは言わないと思うんですけど、若い時に唐さんがいたから、清水さんが居たから、演劇人として生き残れたってことを返していってるんだって言い方をしていました。

長谷部 そういうところはやっぱり義理堅い人だったよね。だって、今あの二人の作品をこのくらいの頻度でやる意味がはたしてあるのかと思う人もいる。とくに商業的なプロデューサーは、考え込むでしょう。

藤田 わかります。あえてコクーンで。サイズ感が違うんじゃないかってところも、蜷川さんはコクーンサイズに落とし込んでやってましたもんね。演出を変えて。
 それは、蜷川さんの唐さんの戯曲にたいする清水さんの戯曲にたいする、きちんと答えを出したいってことだけじゃないと思いますよ。蜷川さんもそれは、おっしゃってました。

長谷部 藤田君のなかで、特に自分がついてた芝居で記憶に刻まれてるものってある?いい作品かどうかは別として。

藤田 ・・・・・・一つに選べないっていうのもあるんですけど、僕はやっぱりC(2009年 シアター・コクーン)ですね。 これは、作品も好きなんですけど、はじめて本番についた作品なので。劇場入りして本番に入ってからは、現場に僕一人。蜷川さんも尊晶さんもいない現場を、きちんとやった作品だったんですよ。

 もちろんゴールドシアターは本番ついたりしてるんですけど、その場合は蜷川さんも尊晶さんもいましたから、シアターコクーンで蜷川さんも尊晶さんもいなくて僕一人だっていうのははじめてでした。

 だから、やっぱりその時に、正直震えましたね。どうしようって思って。もちろん、僕が居なくても本番は進んでいきます。でも、本番が終わった瞬間に、俳優達に会いにいくのは僕一人だけです。蜷川さんがいない。で、「鳳(蘭)さん、三田(和代)さん、お疲れさまでした」ってそれしか言えなかったんですよ。

 「作品こうでしたね」って俳優と関係を築けるようになったのは全然後の作品です。あとのあとに、大竹(しのぶ)さんに怒られたとか、いろいろあるんですけど、逆に怒られるまでになったっていう。

 大竹さんに無視されたとか、大竹さんに怒られたとかっていう経験にも、回数を重ね、成長しないと辿りつけないんで。三田さんと鳳さんに「お疲れさまでした」っていう一言が、「ああ、お疲れさま」って一言だけなんですけど、すごい勇気がいったっていうか、震える気持ちで楽屋を尋ねました。それで、「無事に終わりました」って、蜷川さんと尊晶さんに電話した時も震えました。「どうだった」って言われた時、「無事に終わりました」って。はじめて「無事に終わりました」なんて言ったなって。自分は蜷川さんの作品にもし何かあったら、その報告をしなければいけないわけですから。自分のなかでは演劇人生の非常に大いなる一歩がありました。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。