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藤田俊太郎 師・蜷川幸雄の思い出。その4 蜷川幸雄の怒りは、なぜ激烈だったのだろう。

長谷部 率直に言うと、「カリギュラ」とか「リチャード二世」は例外的で、やはり晩年になると舞台全体の力が落ちていったと思う。やっぱり、70代半ばくらい、2000年あたりの輝かしい舞台とは変わっていった気がする。自分が駄目な時は、わかる人だったと思います。

藤田 わかりますね。

長谷部 自分に厳しくて、作品の出来が、わかる人だったと思います。だから、辛かっただろうね。まわりにはそういう姿を見せなかったんでしょうか?

藤田 僕は渦中にいて一生懸命で、追いつくのに必死だったので、冷静には見れていないと思うんです。蜷川さんがいる現場に追いつこうと。朝の10時から夜の10時までいて、なんとか必死に役割りを見つけよう、力になろう、仕事をしようということだけでした。

 でも、今考えるとたしかに、いい時の蜷川さんはわかります。「この作品がいい」って思っている時の蜷川さん。ネクストの『蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」』とか「カリギュラ」、「リチャード二世」、この辺の作品群のときの蜷川さんは、本番に絶対行こうとしました。
 あとは、「海辺のカフカ」です。「カフカ」をやっている時の蜷川さんもわかりました。蜷川さんはわかりやすいんですよね。僕もだんだんわかってきたんですけど、「これはいいな」って作品のときの蜷川さんは、はっきりしてる。

長谷部 よくないって思ってる時って、(亡くなった演劇評論家の)扇田さんに喧嘩売ったり余計なことしてたな。僕もそうだけど、人間、思いあたる節がある時って変なことするよね。もっとも、蜷川さんは、扇田さんを深く信頼したからだと思うけれど。
 だから、本当は朝倉攝さんのセットを「ハムレット」で使ったのを扇田さんに批判されて、強く蜷川さんは反発していたけれど、自分でもあんまりって思ってたのかもしれないねでも、蜷川さんは扇田さんがあんなに急に死ぬなんて思ってないから言ったんだよね。

藤田。そうですね。

長谷部 ショックだったと思うよ。

藤田 わかります。でも、最後に蜷川さんと扇田さんの計り知れない関係がありました。扇田さんが亡くなる前に、楽屋で二人で結構長く話してたんです。みんなざわざわして、「仲直りか」って言ってました。扇田さんが観に来てくださって。あれは「リチャード二世」だったと思うんですけど、20分くらい話してました。

長谷部 二人で?

藤田 楽屋の中心で二人で話してました。蜷川さんは車椅子で、扇田さんは座って、誰も立ち入れない感じがありました。二人にしかわからない会話でした。二人とも、とにかくすごい笑ってました。なんかこう、聞いちゃいけない感じだったと思うんですけど、亡くなる前にそういう感じでした。

長谷部 そういう意味じゃよかったね。和解して。

藤田 そうですね。

長谷部 プロデューサーもある意味仕事の相手だし、批評家にも何言われるかわかんないし、結局蜷川さんが信じてたものって何だろうね。演出部かな。俳優も、調子悪くなったらいなくなるものでしょ。

藤田 はい。演出家としてわかります。

長谷部 そういう意味じゃ演出家って孤独な仕事じゃないんですか。

藤田 本当に、そう思いますね。

長谷部 だから、誰を信じてたんだろう。「演出術」(ちくま文庫)で話をゆっくり聞いたときも、作品については「家族にも本当のこと言わない」って言うんだもんね。

藤田 そうですね。

長谷部 演出部には言ってたの?

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。