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歌舞伎に未来はあるか、断崖にいる私たちについて考えたこと。

 大阪では、医療が緊迫している。東京も明日はどうなるか、わからない。

 ロンドンやニューヨークの大劇場が、閉鎖を強いられているなかで、日本はかろうじて綱渡りのような公演を続けてきた。

 感染者数や死者が、加速度的な上昇にまで至らなかったこともある。また、GO TO TRAVELや五輪との整合性を取るために、移動や大規模公演を認めざるを得なかった政府の方針もあるのだろう。

 けれども、第四波が深刻化するにいたって、こうしたディールもまた、危険な水域に来たように思う。

 演劇の世界にいるひとりとして、劇場が閉鎖されるのは、耐えがたい。
 けれども、五輪を開くための弁解のために、劇場やスタジアムを開け続けるのであれば、これは、本末転倒である。また、将来に禍根を残す一大事といわなければならない。

 一期一会に生きるのは、アスリートも舞台人も同じだろうと思う。

 この一瞬、この公演が消え去ってしまえば、延期になった公演とは同一ではありえない。翻ってみれば、死という断崖に向かって、無言で進みゆく私たちの人生そのものが、こうした暗喩のなかにいる。

 初舞台から死に至るまで、舞台に立つことを宿命づけられた歌舞伎役者は、人生のトラックと類似している。

 昨年の八月から、歌舞伎座が再開してから、四部制から三部制へ興業形態は、変化した。歌舞伎役者はその制度に対応せざるを得ない立場に置かれた。仕事がなけば、一門、一家を養ってはいけないからである。

 この数ヶ月、さまざまなことを考えた。

 時代物の第一人者である吉右衛門が、舞台ではないにしろ病に倒れたこと。兄、白鸚が体力、気力の限界にありつつも『勧進帳』の弁慶を勤めていること。世話物の菊五郎劇団を率いてきた菊五郎もまた、体調が万全であるようには思えない。

 こうしたむずかしい状況の中で、玉三郎と仁左衛門が興行の核を担うことになった。オールドファンにとっても、『於染久松色読販』や『桜姫東文章』を再び、観ることができたのは、眼福であった。

 また、四世南北の世界観が、今と通じているとよくわかった。つまりは、既成の秩序が崩壊するときに、人間はいかなる汚辱にも身を染め、そこにも身が震えるような歓喜がまたあるのも真実である。

 もし、仮にと思わないわけではない。
 勘三郎、三津五郎が存命であれば、現在の状況を背負って立っていたのだろう。次の世代とのリンクを担い、睨みもきかせていたのだろう。その仮定も幻となった今、大立者たちの奮闘に頼らなければならない。その無理をお願いしている事実に私は戦慄を覚える。

 嘆くばかりでは、文章を綴る意味がない。 

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。