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二十六七の時分、わたくしは、わけもなく日の光をきらつた。(久保田万太郎、あるいは悪漢の涙 第十九回)

 この年の十二月、演劇研究のために小山内薫は、シベリアを経てヨーロッパに向かう。出発前には、土曜劇場主催の送別演劇が行われた。

「『土曜劇場』を全くじぶんのものとして愛していた。西洋から帰ったら、一つあいつを自分の思うとおりなものにしてやろうと思っていた。」(小山内「新劇復興のために」)

 が、旅先のパリの大使館で受け取った手紙には、土曜劇場の瓦解が報告されていた。
 指導者不在のあいだ、ストリンドベリ『父』やイプセン『鴨』の上演が好評をもって迎えられ、有頂天になったあげくの内紛ではないかと、小山内は想像している。

 万太郎にとって、土曜劇場は、自作が舞台にのる上でのよりどころであったろうが、集団自体が消え去ってしまったのである。

 この頃から、万太郎は、薫、吉井勇、長田幹彦、岡村柿紅、田村寿二郎らと親しく交わり、芝居劇場の関係者と接触の機会も多くなる。
  はじめの三人は、パンの会の人々であり、柿紅は新進劇評家、寿二郎は市村座を経営する興行主田村成義の息子である。万太郎が、大正元年九月「演藝畫報」の依頼によって、『宮戸座と真砂座』、十二月『芝居問答』を書き、翌二年七月には、「演藝倶楽部」に「七月の歌舞伎座」を発表、劇評のジャンルに手をそめたことも、交友を広めるのに、大きくあずかっていただろう。

 演劇批評は、観劇のキャリアがものをいう世界である。
 幼い頃から芝居通いを欠かさなかったとはいえ、二十三歳の大学生が、並みいる見巧者のなかで劇評を発表するには、それなりのしつらえが必要であった。

 『宮戸座と真砂座』は浅草を舞台とした随筆風の書き出しである。

  八月のよく晴れた晩、たまたま来合わせていた友人と浅草公園をぶらぶら歩く。宮戸座の前を通ると、いかにも景気がよさそうなので一幕入ってみた。新派の『友』という狂言があいていたが、ちっとも面白くないので、一と幕で出てしまった。
 それからまたぶらぶら歩き、電車にのって真砂座をはしごするというしつらえである。思いもよらず一晩に東京の古い劇場を二軒見た。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。