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【劇評207】十八代目勘三郎が勘九郎に乗り移った『連獅子』。十七代目勘三郎三十三回忌追善に見る藝の伝承。

 一見、関係ない話から始める。
 二○○七年の三月、パリオペラ座で市川團十郎、市川海老蔵の歌舞伎公演があった。ふっとしたことで、パリの情報誌の案内を見たら「ICHIKAWA FAMILY DANCE COMPANY」と書かれていた。この公演は、市川團十郎家とその一門に、市川亀治郎(現・猿之助)が加わっている。初代段四郎は、初代團十郎家の門弟だったから、「FAMILY」と聞いて感じた違和感のほうが、歴史的にはおかしいのかもしれない。

 なぜ、こんな話を思い出したかというと、二月大歌舞伎の第三部は、十七代目中村勘三郎の三十三回忌追善と銘打っていたからだった。十七代目が当たり狂言とした『袖萩』と『連獅子』の藝を、孫とひ孫が継承する番組立てである。ここにいるべき十八代目中村勘三郎は、今はこの世の人ではない。けれども、その藝統は絶えずに、ひ孫の世代に引き継がれていくとの宣言であった。

 追善は、どれほど故人に徳があろうとも、その継承者たちに人気と実力が備わっていなければ、実現できるものではない。興行として成り立ち、しかも周囲の理解を得ることができたのは、十八代目中村勘三郎の力もあろうけれども、勘九郎、七之助がそれだけの声望を身につけた証しでもあった。

 さて、まずは『奥州安達原 袖萩祭文』、袖萩と貞任を当り役とした。以来、さまざまな役者が演じてきたが、この演目、どうも心を強く動かされた記憶がない。
 前半、瞽女となって実家を訪れた袖萩の設定そのものが、理解しがたく、子役の芝居が涙をそそるばかりである。『摂州合邦辻』の玉手御前と比べると、艶に欠ける役だと私には思えてしまう。

 今回は、七之助の袖萩に、長三郎のお君、父直方に歌六、母浜夕に東蔵をえているのだから、芝居として悪いわけはない。
 駆け落ちをして親にそむいた娘と、哀れに身をおとした娘を許せない親、その意地の張り合いが強く立っている。袖萩は三味線をとって独吟する。手がかじかんだのだろう。落とした撥を拾って母に持たせるお君の憐れ。こうした細部を手取り足取り教え込んでいく家の藝の厳しさを思う。

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年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。