【劇評317】歌舞伎座で歌舞伎らしい歌舞伎を観た。仁左衛門が融通無碍の境地に遊ぶ『松浦の太鼓』。
十一月歌舞伎座、夜の部は、久し振りに歌舞伎を観たと実感できる狂言立てだった。世代を超えて、未来に残すべき狂言を一気に観た。
まずは秀山十種の内『松浦の太鼓』。播磨屋、中村屋が家の藝としてきた演目だが、仁左衛門の松浦公は、融通無碍で、この性格に一癖ある小大名の人間がよく見えてくる。
なかでも、松浦邸の場で、歌六の宝井其角を相手に、怒り、拗ね、笑い、喜ぶありさまを、見事に見せる。
本作は、いわずと知れた『忠臣蔵』外伝だが、忠義を尊く思う武士の世界のなかで、これほどまでに建前にこだわらず、自由に感情を表現した人間がいたのか。いや、いてほしいという私たちの願いを体現している。
人間の機嫌は、ささいなきっかけで、一気に変わる。その照り曇りに対して、歌六の其角は、ただ「御意」と受け止めるだけではなく、大高源吾(松緑)と、両国橋で出合ったことを何度も言いかける。
仁左衛門の松浦公は、話をそらそうと何度も押し返す。その呼吸、心理の綾までもが、歌舞伎座の大舞台にもかかわらず、客席に届く。役者がついにはたどりつくべき境地を見せてもらった。
年々、演劇を観るのが楽しくなってきました。20代から30代のときの感触が戻ってきたようが気がします。これからは、小劇場からミュージカル、歌舞伎まで、ジャンルにこだわらず、よい舞台を紹介していきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。