OD自殺備忘録①

こんにちは、hasamiです。

今回はOD自殺備忘録①、どんな経緯とかで自殺したのか書いてゆきます。

先に書いておきますが、これは自殺幇助や、推奨するものではありませんが、死ぬなとは思いません。

今回はなぜ自殺に至ったのか長期的要因についてを主とします、ここを読まなくてもこの後の備忘録に問題はありません

毒親話なので辛い方は読まない方がいいです。




まず普通に育ってたら希死念慮と自殺願望で喚き叫ぶなんてしない、いわゆる毒親の家庭(あれは家庭なのか分らない)で育ちました、小学2年の時に親が姑と嫁の不仲が悪化し離婚して、父親に付いて祖母の家で暮らす生活が始まりました。(ここが地獄の入り口)

多分皆さん小学校3.4年生くらいから自我というか物心ついてくると思うんですが、その時と同時に希死念慮と自殺願望が発生します。9.10歳の話。

家ではリビングにいるだけで怒鳴られたり、殴られたりは日常茶飯事で、図書の時間に借りてきた小説や図鑑を読めば賢ぶるな、なにかミスをすると姑(父方の祖母)や父に

「お前はあの母親に似て何も出来ない」

「お前みたいなのが働ける社会なんてない」

「ボート学校にいれてやろうか、毎日どつかれろ」

「本当にお前は邪魔」

「お前引き取って後悔しかない」

などなどの暴言を暴力と共におみまいされる毎日でした、一度祖母に包丁向けられて殺してやろうか!!なんて恫喝みたいな事もされました、こんなに酷い事ばかり言ってくるのに年に1.2回は学校休んで旅行に行ったり(近畿圏住みで、北海道や沖縄など本当の遠出)、外食には行くし、飯の用意もされます、正直そこまで髪引っ張られてどつかれてアザつくってくる人達と旅行なんて行きたくありませんでした、旅行先でももちろん暴言暴力は止まないのです、人前でも平気で怒鳴ってどつかれます。

酷い暴言暴力が中学に上がる頃には少し諦めたのかおさまりはしましたが、次は部活に入れと嫌なのに運動部に入らされました(球技苦手なのにテニス部に入部)、私が嫌だった理由は家の場所がへんぴな山奥で学区外に住んでいて学校まで徒歩50分はかかる場所なので、帰りが遅くなっても怒ってくる人たちが夏場6時閉門から7時頃に帰ってくるのを許すわけない、と思ってたら予想通り

「帰ってくるのが遅い、道草するな」 (する暇などない、急な坂道を疲れた脚で登るので、足取りが重いのは必然、買い食いしたら速攻学校に連絡はいる田舎なので道草不可)

を大体毎日言われるので顧問と部活リーダーに相談して、夏場も4時半で早上がりさせてもらって早く帰ってくると部活をサボるな、6時までしろ、とまた怒鳴られるなどなどしてました。

もちろん部活用品はあまり買ってもらえないので靴下は全て穴開き、体操服は数が無いのでローテが出来なくて制服で練習したりしてました。ここまでくると面白いですね。

部活始めて数ヶ月経ってから部内学校生活、全て無視のいじめも併発されて、そこから私の精神面はジワジワと転がり落ちてゆきます。

1クールくらいで我慢の限界で顧問に相談したら一応話し合いは始まりましたが、加害者生徒は全く反省せずいじめはおさまりませんでした、家でいじめられてる事を勇気出してどうにか言ったら

「お前が悪いんやろ、しゃあないな」

だけで終わって、悲しいし根源的欲求として親に愛されたい気持は消えないし、少しは労って辛かったなと抱きしめてもらえるかと期待した自分にも絶望して、その場で泣いたらもちろん暴言暴力で終わらされました。思い出しただけでつらい。

そこからグチャグチャの精神で学校には行きました、行かなければ家も地獄なので行かざるを得ない、逃げ場がない。毎日早く死にたい、自殺しないとダメだ、皆の幸福度向上には死ぬのが一番、とこの頃からより本格的に思い始めました。この頃に一度首吊りしましたが紐が細過ぎて痛くてアマちゃんなので、やめました。

そこから時は少しすぎて高校、この頃には完全に諦めたのか暴言はありつつも殴られたり家の外に放り出されたりはしなくなりました、が家の立地的にもバイトに行けないし(帰りのバスが無い)、遅くなると怒鳴られるトラウマでバイトせずにいたらまた

「お前に働くなんて不可能」

「お前雇うほど余裕ある店なんてあるか」

などなどの暴言を日に1回は言われる3年間です。ここで大きな選択肢が出てきます、

進路です。

私は昔から絵をしたい、絵を学びたい、仕事にならなくても良いから普通じゃ学べない絵やデザイン、アートや芸術美術を学びたいと常々考えていたので、私立に行っていたのもあり受かると蹴る事が不可能の、指定校推薦、を使用して学費面も考えて芸大附属の専門学校に無理矢理進学しました。3年制で年の学費が芸大の半分以下で抑えられます(それでも100万近いです)、そこで色々発生する入学金やらは父が断固として払わないと喚き散らしていたので、母方の祖父母や親戚に借金しました。それでどうにか入学できました。


最初っから短端に明瞭にこの3年間の感想を述べると、今までの人生で一番楽しくってこんなに生きるのって楽しいのか??!?生きてて良いの???、と思える時間でした。

もちろん専門学校なので課題は恐ろしい速度で出されるし、授業は忙しいし、家から1時間30分かかるので遠かった、聴覚過敏気味の人間の電車は地獄、だけどそんな事関係ないくらい知的なことって楽しいんだな、自分ってバカじゃないじゃん、と感動してました。

けどここにも父は気に食わないのか、昔からですが”私が楽しくしてると機嫌悪く”なります、楽しいは楽しかったんですが高校3年の夏に祖母が亡くなって以来、私も家事料理をよりたくさんしなくてはならなくなっていたので、6時30分頃に授業終わったら先生に聞いたり知識の共有する暇もまく、8時に帰ってくる父と6歳下の妹の飯や犬の散歩や洗濯物の取り込みなどして、8時に料理出来上がってないと飯食べない、目の前で即席ラーメン作って食う、みたいな事をされつつ、とりあえず学校楽しいのでいいか、と思っていました。

ですが、2年夏ごろに論理も思いやりもクソも無いのか???といった発言をされて、家事全てしなくなりました。

ここがきっと私の精神の限界点だったんだと思います。分る方なら分るとおもいますが2年の夏、もう就活が始まる時期。

私は就活の形態がおかしすぎると常々思っていて、ずっと嘘ついて真実ではない笑顔で面接して、思ってもいない言葉でよく知らない会社の事賞賛して、皆同じようなスーツで、洗脳しやすそうな人を選んでなぜか吟味されて、有り得ない不愉快を己からする必要あるのかな?と考えて、嫌な事を避ける幼い時からの自己防衛的な自己中心的な行動で、ポートフォリオの叩き台作って、求人は見たんですがやっぱりオカシイ感覚が抜けなくて、あまり活動をせずにいて(世間の尺度で私はクソ野朗なんだろうね)、きっと今までの暴言のトラウマもあったんだと思う、根源的に働く事が怖い、バイトもほぼ行けてなかった。

ドーノコーノしてるうちに時間はなぜか過ぎちゃうので卒業式、その頃というより3年の1年間は精神的にダメになっていて、不眠と過眠が加速してストレスの過食、自傷は学校があるので我慢してました、アームカットはコスパ悪いのでODしてました。

卒業式の数日前から何もできずに起き上がれない、睡眠時間>覚醒時間、の日々を過ごして、とりあえずでどうにか卒業式には行ったはいいがお世話になった先生には申し訳ないし、課題褒めてくれた先生に申し訳ないし、スーツ着る気力もなかったので私服で行って、袴着てる友人見てあぁこれが普通・・・とか考えたり、卒制がイラストコース行ってたのでイラスト最もしてインスタレーションにしたのに、なんで素材コピーして切り絵してる人が選ばれるんだ?とか、今までもそうだけどニートだなぁとか、色々考えて2時間くらいの式終わって帰ってきて(皆シャイなのでクラスでの集まりは多分無かった、あったら悲しいね)。


その数日後の2020年3月23日の朝4時30分、睡眠薬や向精神薬など、約250錠をカウボーイ(ウィスキーと牛乳のカクテル)で飲んで眠りにつきました。

もうめちゃくちゃ楽しい3年間だったしこれ以上生きてても楽しくないし、今終わったら楽しいままで死ねてラッキーじゃん、程度の気持で自殺しました、怖いとか嫌だとかなくて、あぁこれで終れるんだなこの地獄、程度でした。

けど生きてしまいこの記事を書いています。



次回は飲んだ時の詳細な話を写真と共に説明してゆきます。

これは自殺幇助や、推奨するものではありませんが、死ぬなとは思いません。人には人の地獄があって逃げられない呪詛、トラウマがあります、それを表明したり死ぬことで解放されるなら、自殺未遂も良いんじゃないかと思っています、過労死事件と同じで行動で指し示さないと理解しないこの国、国民性、程よく死ぬのは選択肢だと私は考えてます。

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