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【モノローグエッセイ】注意書きについてのモノローグ

☆ 注意書きなしには話せないボクら

この前映画を見に行ったんだけど、エンドロールの最後にね、こんなテロップが流れたの。「※本作品はいかなる場合でも、自閉症の方々への拘束を許容したり推奨していません」って。映画の中には、自閉症の女の子が出てきて、発作が起きた時に周りの人がけっこう羽交い締めみたいな、強めに押さえ付ける感じで拘束してたのね、それへの注意書きだったんだけど、私その時ふと思ったのよ。最近、世の中注意書きばっかり見るなぁって。特に表現の場で。思わない?ディズニープラスでも、「ピーターパン」と「おしゃれキャット」の映画の最初に侮蔑的描写があるっていう注意書きが追加されたりとかね。
そんな注意書きがあるにも関わらず、これは差別だとか名誉毀損だとか必ず声が上がって、ネット上は炎上してる。みんなの目に止まるためにデカデカと注意書きを出してるのに、そんなのそっちのけじゃない?いや、こちとら間違った形で伝わらないように注意書きを出してるのに、「そんなんじゃ伝わりません。」「いや、やっぱりこれは差別なんじゃないですか?」って。挙句の果てにはこんなふうに考えてる私を見て、「スノーフレーク世代がまたセンシティブになってる。」とか言う人もいる。…そういうの見てるとさ〜、思っちゃうんだよね、注意書きがあるからみんな目を向けないんじゃないかって。きっと注意書きを見ないフリした経験は誰しもあるんじゃないかな?「18歳以上対象商品」、「お酒は20歳になってから」とか?…あ、もちろん注意書きを見ないフリすることを推奨してるわけじゃないからね?※(コメ)マークつけて「あくまでも例え話です。」ってテロップがあると思って。注意書きって私からしたらセーフティーネットみたいな、自転車の補助輪みたいなものだと思ってるの。万が一の何かがあった時のもの。誤解を生まないために、正しく認識、判断してもらうための言わば緩和剤みたいな。そのセーフティーネットや補助輪に対して「そんなんじゃ全然ダメだ」とか「でもやっぱりこれは危ないんじゃ?」って言うのはさ、なんかもう違う問題に発展してない?補助輪付きの自転車に「いや、やっぱりこれじゃ危険だよ」なんて言ってたら、いつまでたっても自転車に乗れないままじゃん。センシティブなのはどっちだよって感じよ。注意書きを見ているようで、ちゃんと見てないからそうなる。でも注意書きは必要とされてる。私達はもう注意書きなしに何か言ったり話したりするのは難しいのかねぇ?…でもさ、こんな風に注意書きが増えてきているということは、今まで是認されてきたことが問い直されてきている兆しなのかもね。見過ごされてきたものが差別と認識され、当たり前とされてきたものが問い直されるようになった。注意書きが差別や問題を気づかせてくれるもの、自分を守るセーフティーネットであるなら、尊重していきたいし、その補助輪なしでも正しく分かり合えるようになることが理想なんじゃないかな。補助輪なしの自転車に私も乗れるように練習しなきゃだね。



※本著作物の著作権は、橋本薫子に帰属します。

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