見出し画像

実体 とは?

最近思うことがある。
「実体」とは何か?ということである。

幼い頃から漠然と「自分がみているものは他の人が見ているものと果たして同じだろうか?」という疑問があった。
例えば、霊が見える(と主張する)人やUFO・小人・ビッグフット等々を見たという人などを本当か嘘かという以前に、この世は本当に自分が見ている世界そのままに存在しているのか?自分の脳が認識しているのは小さい頃から世の中に「これはこうである」と教えられて来た「知識」であってそこに存在しているそのものをそのまま写し取っているわけではないのではないか?ということである。
近年脳の仕組みや働きの解明が進むにつれ、視覚や触覚などの足りない部分を過去の経験や記憶から足りない部分を補填して脳が認識しているということが分かっている。

私は小さい頃よく「嘘つき」と言われた。
幼い頃から無類のオカルト好きで霊の存在はもちろん妖精やコロッボクルの存在を信じていた。なぜか妖怪の存在は信じていなかったのはおそらく読んでいた本のジャンルに依るところが大きいかもしれない。
私は決して「見た」と言ったことはないと思うのだけれど、そういう話を同級生にするとなぜか「嘘つき」と言われることが多かった。まぁ単に変わり者扱いされていただけかもしれないが。(まぁ実際変わり者だったし)
しかし幼いながらそれは非常に理不尽だと私は感じた。なぜなら、なぜ「いない」「嘘だ」と言い切れるのか、おまえは私以上の何を一体知っているのか、と思ったからだ。
その気持ちの正体がどういうものか幼い頃は理解できなかったけれど、最近ああそうかと納得がいったのは「科学者に対して思うこと」を考えていた時だ。

この世の全てなど誰も知る由がない。
人類が知り得ていることなどほんの取るに足らない量であって、この世は人が知らないことの方が圧倒的に多いはずである。
なので、今知り得ている情報や知識・見識に当たらないことをばかげた空想だとするのは非常に愚かだと私は感じるのだ。
この世の全てのことはありえるし、また全てありえないとも言える。
人が検証可能でありかつ人が共通して認識できるものだけを「この世の現実」とするならば、まだ発見も解明もされていないものの存在とはなんであろうか。
人類とは全知全能でありさもこの地球をコントロールしているかのような錯覚を覚えている人が実は多くいるのではないか。
だとすればそれはとても寂しく悲しいことだと私は感じるのだ。

とはいえ、私が幼い頃に流行った「口裂け女」に関しては私は全く信じていなかったが。
その話はまた別に書きたい。

私は今年の春に美大の通信課程に入学した。
美大で絵を描くというのは非常に新鮮で、まだ若い細胞のようにいろんなことが湯水のように自分の中に流れ込んでくるような感覚がある。
同時にこれまで頭でなんとなく漠然と思っていたけれど形になっていなかった考えや疑問がはっきりとしてくることも多い気がする。
そのひとつが「実体」というものの存在である。

絵を描こうとする時、「モチーフとなる対象物の『実体』を捉えようとする」という表現を見聞きすることがある。
……実体?
実体、とは?
私が今見ているもの、そう見えていると認識しているものは「実体」だろうか。実体ではないのだろうか。そしてそれは他者との共通認識なのだろうか。

複数人で同じモチーフとなるモデルさんや植物、雑貨などを描いていても当然のことながら全く違う絵が出来上がる。絵の上手い下手や表現方法による違いがあるのは当然だが、それだけではない違いを感じることもある。
ちなみに私が違いを感じる多くは色だ。

自分が見ている色が他者にも同じ色に見えているのかどうかはおそらく永遠に分からないとは思うが、大学の授業で日本画と西洋画の違いについての講義の中で「国の緯度によって物の見え方が違うのではないか」という話を聞いた時に長年の胸のつかえが取れたような気がした。
数十年前北東北の田舎から東京に上京してきたとき、比喩ではなく文字通りとにかく何もかも眩しくて難儀した。教室は明るすぎて眩しくて黒板がよく見えなかったし、デパートや家電量販店では薄目でうつむいていないと眩しくて頭痛がするほどだった。関東の海水浴場では特に眩しすぎて全く目を開けていることができなかった。
つまり、少なくとも私と関東で生まれ育った人とではおそらく明るさの認識はまったく違うはずである。
ちなみに私は明かりを消した後の真っ暗な部屋の中でもたいていのものは見える。夫は全く見えないらしく私の目を暗視カメラのように思っているようだ(笑)。

色の見え方の違いでいうと、古代には「青」という色は存在しなかったという研究があり、アフリカのヒンバ族には今なお青という概念がないという報告もある。

そう、全ては概念である。
「これは〇〇」「これはこう」という学習することで人は物を認識する。
ということは自分の中に認識や概念のないものは「存在しないもの」であるということもできる。
もしも視覚からの情報を脳が自動的に補正しているとすれば、実際には存在しているものを存在しないものとして消去して「見せて」いる可能性は充分にある。
そして逆も然りである。

だとすれば、特定のものを「見える」人と「見えない」人は学習機会の有無による違いでしかないのかもしれない。

では「実体」とはなんだろう。
とさらに疑問は増す。
それは私が「存在すると思っている物体」でありなおかつ「こんな様相だろうと思っている物体」でしかないのではないか。ならばそれは絶対的な存在ではなく、各々の経験からくる想像の集合体である、とも言える。
触れる事ができるから実体があるとする直感的な感覚は主に幼少期の経験に基づくものであろうから、もしかしたらそれすらもあやふやな存在かもしれない。


考え始めると夜も眠れない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?