【小説】ホラー映画を観た後に。 『自伝 柳葉魚の卵』より
小さな頃から、僕はおばけが怖かった。"おばけ"と呼べばいくらか恐怖が薄れるだろうから、敢えて幽霊だとか怨霊だとか、厳つい呼称は使わないようにしているくらいには恐れていた。
とはいえ、僕は創作物としてのホラーは大好きだった。映画やアニメ、漫画など、ホラージャンルは自ら進んで鑑賞してきた。
中でも、僕は都市伝説に強い関心があった。都市伝説は、それが生じるまでの過程と時代や地域に因る変移こそが魅力である。つまりは、複数の創作者が一体となって成立していく作品なのだ。
例えば、口裂け女をご存知だろうか。マスクをした女性が「私、きれい?」と尋ねてきて、回答次第では回答者の命を奪うという内容だ。「綺麗だ」と答えれば、マスクを外して醜悪な裂けた口を露わにし、「これでも?」と再度問い、襲い掛かってくる。
インターネットも禄に普及していない時代に、この都市伝説は子どもたちを中心に全国的に広まった。
それは一体何故か。識者によれば、学習塾をはじめとした習い事のブームが関係しているとされる。
世の小学生たちは、基本的に同じ学校の子どもたち同士でしか知り合わない。行動範囲が校区内に制限されているためだ。しかし、校区を跨いだ習い事の場で、都市伝説は爆発的に拡散した。
特に、口伝である点が重要だった。都市伝説のキャラクターたちやストーリーは自由に改変され、時により恐怖を演出する要素や逃れる術を追加されながら、柔軟に完成していったのである。
さて、前置きが長くなってしまったが。僕はその日、東京への出張から自宅のある佐賀へと飛行機に乗って帰って来るところであった。
飛行機の移動時間は長い。離陸と共に、僕は某配信サイトで事前にダウンロードしておいたホラー映画を再生した。
観ていた映画は、『きさらぎ駅』という。これはインターネット上で生まれた都市伝説を基にした作品で、電車で眠ってしまった主人公が、同乗者数名と謎の駅へと辿り着き、様々な怪異に襲われながら脱出を目指す内容である。
元ネタの都市伝説では実際の体験談をリアルタイムで掲示板に書き込む体で執筆され、同乗者はおらず語り手一人で駅周辺を探索することとなる。
映画の出来としては、良作と評価して良いだろう。肝心のホラーシーンは低予算感溢れるCGによって恐怖が薄れたものの、脚本は大変に良かった。
余韻に浸り、ある程度の感想がまとまった頃、隣県である福岡の空港に到着した。ここから佐賀までは、博多駅を経由しての電車移動となる。博多駅から佐賀駅までは終電。到着する頃には日付が変わる直前だ。
揺られながら、微かな後悔に気が付く。何故このタイミングであの映画を観たのか。この日早朝から東京での用事にあたっていた僕は、酷い睡魔に襲われていた。僅か二時間ほど前に観たシチュエーションだ。
微睡む意識の中で、視覚情報の最終確認。終電なのにやたらと人が多い。飲み会帰りのサラリーマン、親子と見える女性二人組、威圧的なファッションの若者。嗚呼、至って正常な、北部九州の、電車、内――。
◆◆◆
目覚まし時計は、電車内のアナウンス。聞き慣れない駅名。東京には頻繁に通っている。すなわち、頻繁に乗っている路線。知らない駅名がある時点で、何らかの異常が発生しているとすぐに理解した。
同じ車両の乗客は、片手で数えられるほどに減っている。静まり返った車内を、線路を駆る轟音が支配している。
窓から外を窺えば、闇の中に田園風景が映りだした。映画と同じだ。ただし、佐賀は田舎なのでこの景色は特別ではない。
現実的に考えれば、僕が乗る電車を間違えた可能性が最も高い。それを証明するように、スマートフォンのマップアプリはしっかりと僕の現在地を示してくれていた。
電車は熊本に向かっているようだった。幸いにもまだ福岡南部を走っている。次の駅で降りれば、どうにかして家に帰りつけるだろう。超常現象など現実ではまず起こらない。二十数年も生きていれば、そんな冷めた認識は当たり前に備わっているのだ。
僕はいつの間にか足元に落ちていた財布と会社から支給されている仕事用のスマートフォンを左右のポケットに突っ込み、立ち上がった。もう一度眠ってしまえば、いよいよ帰れなくなってしまう。
◆◆◆
ひとまず、停まった駅で降りてみた。駅名は知らないが、市町村単位で言えば聞いたことはある地名だし、文明の利器には自宅までのルートが明確に示されている。
とはいえ時刻は二十三時半を過ぎ、公共の交通機関はもう使えない。タクシーで帰れば相当高額になる距離。迷惑を承知の上で、友人に電話をかける。
三コールで出た男は、唯一地元に残っている友人。進学や就職で高校卒業後そのほとんどが県外に出てしまう佐賀県にとって、僕と同じく貴重な若者だ。
向こうも地元に同世代の友人はほとんど残っていないらしく、頻繁に僕を飲みや遊びに誘ってくる。僕から誘うことは殆ど無いので、電話口の声は明るい。
しかし。彼を頼るアイディアは失敗した。この日に限って僕と入れ違いで東京へ旅行に行ってしまったらしい。
こんな偶然があるのだろうか。全く、僕の人生は常に間が悪い。
同じ駅で降りた白い顔の男を、やや警戒心を持って眺める。数メートル後ろを歩きながら、僕はズボンのポケットに手を潜らせる。あ。
すぐに左手を胸のポケットへ。そして手提げのバッグへ――切符がない。
記憶を辿ると。座席の切符入れに刺した記憶は鮮明にある。ただ、そこから回収した記憶がないこともまた、鮮明であった。昔からのうっかり癖。
どちらにせよ、僕の持っている切符ではこの駅の改札は通れない。しかし、どんな切符でも持っているのとそうでないのは全く違う。無賃乗車でない証明は必ず行う必要があるからだ。
不気味に思っていた白い顔の男が、いたく現実的な動作で改札に切符を通し駅の外へと出ていく。駅構内に、僕はただ一人残された。
無人駅とはいえ、終電が通過した直後だ。もしかしたらメンテナンスや清掃などの用で、鉄道の職員が来ているかもしれない。田舎にしては広い無音の駅を、僕は隈なく探索してみた。
結果として、僕はやはり一人だった。諦めて改札まで戻り三年前のイベントを告知するポスターを眺めていると、小さな賽銭箱のような物を見つけた。
それは、どうやらこうして切符を紛失したり乗り過ごしてしまったりした者が運賃を入れる箱らしい。僕は迷わず博多駅からの運賃を投入し、改札横の通路から駅を出た。
駅の外は、車窓から眺めたのと変わらない田園風景――。
「おーい。おーい」
戦慄、鳥肌、喉の乾き。駅の方から――いや、明らかに駅の中から、抑揚の無い声が聞こえた。低めのしゃがれた男の声。トイレの個室も含めてあれだけ探し回って見つけられなかった人間の声が、今はっきりと冷え切った空気を揺らし、僕の耳に届いていた。
いつぶりだろうか。駅とは反対方向に全力で駆けた。自分の足音がやけに大きく響く。あの声はずっと同じ音量で、しかし追いかけてくる音は一切なく、しつこく僕の鼓膜を震わせ続ける。
息も上がり運動不足の両足が止まった頃、錆びついたシャッター街に着いた。いつの間にか声は聞こえなくなっていた。建物の隙間を抜ける風の音すらも不気味に感じ、未だ鳥肌は収まらない。
テナントゼロの廃ビルを通過した時、裏手に突如コンビニエンスストアが現れた。助かった。幸いにもこの店舗は二十四時間営業、今日日地方では日付変更とともに閉まる店舗も多い中、よくぞこの田んぼとシャッターに囲まれた場所で僕を迎えてくれた。
ここまでたった三十分間ほどの出来事だが、長時間の移動時間も相まって疲労はとうに限界。僕には橙と緑の制服に身を包んだ店員が、非常に頼もしく思えた。
ひとまずトイレを借り、恩返しにと缶コーヒーと煙草を購入する。渋い男性の顔がプリントされたラベル、ホットはブラック派。
駐車止めの石に腰掛け、指先に力を入れて乾いた音を鳴らす。冷え切った外気と僕の手を刺激する熱を、小さな飲み口で混ぜ合わせた。
少量を口に含み、ため息をひとつ。思い出したように上着の右ポケットからラッキーストライクを取り出す。
煙草は良い。肺を煙で満たし、不健康に吐き出す。この工程は、深呼吸と似ている。乱れた思考と心拍数が穏やかになっていくのを感じる。
冬の風が頬を撫でるたび、初めて吸った日を思い出す。青森県から当時住んでいた北海道へと逃げ帰った四年前、今日と同じようにコンビニで初めて白いケースを手に取った。
当時の僕は、死にたくてたまらなかった。結婚まで誓った最愛の恋人がカルト団体に拉致され、取り返しに行った先で己の無力さを痛感し、この先の人生を楽しく生きていく自信を持てなかった。
しかし。冒頭でも伝えたように、僕はとんでもなく臆病だ。即刻自ら命を断つ勇気は無かった。それならばと、長く生きない方法を選んだ。喫煙のきっかけである。二十一歳の時分は、それまでの人生から、その先の人生を推定し絶望していたのだ。
依然中間発表ではあるのだが。存外その後の人生は悪くない。あいも変わらず酷い目には遭ってきたが、僕にとって"良い人生"のハードルは、相当に低いようだ。
いつの間にか、燃焼部分がフィルター寸前まで迫っている。未だ当たり前のように設置されている銀色の灰皿に、短くなった煙草を落とす。
田舎特有の広い駐車場には、三台の乗用車。他にもコンビニに接した道路を数分に一度通過していく。あれをやるしかない。
公共交通機関、タクシー、友人。これらの選択肢を失った僕の次の策は、ヒッチハイクだった。このままコンビニの駐車場に居座り、佐賀ナンバーの車が駐車したら声を掛ける作戦だ。
幸い人見知りはしない質だから、抵抗はなかった。にこやかに声を掛け、僅か三台目で僕の自宅周辺を通過する予定の男性に出会った。
明らかに年男を五回以上は経験している老年の男性は、黒い軽トラックの運転席から顔を出し、無表情のまま僕の同乗を承諾してくれた。
車内で会話は生まれない。男性は僕の質問に沈黙で返すし、当然あちらから声を掛けてくれることもない。
だから。というのは順接では無いのだろうけれど。僕は再び眠りについた。決して能動的な睡眠ではなかった。長距離移動の疲労と、ようやく家に帰れる安堵が押し寄せたのだ。
◆◆◆
「おーい。おーい」
重い瞼を開き、先程とは違う運営会社のコンビニが視界に入る。ノイズ混じりのラジオの音と、平坦なイントネーションの男の声。
青い看板は、間違いなく我が家の最寄りのコンビニだ。男性は相変わらず無表情で、僕が起きたのを確認し、再び口を閉ざす。
「あ、ありがとうございました。本当に助かりました」
礼を言い、車から降りる。男性は瞬きもせず、じっと目を合わせてきたものの、僕が愛想笑いを浮かべ何度か頭を下げると、顎をくいっと動かし視線がそれる。
僕は振り返り、自宅へと歩き始めた。背中で男性の黒い軽トラックが去っていく音を感じながら、充電切れ間近のスマートフォンを起動する。時間は、深夜一時半を回っていた。
家の前に到着し、ドアノブに手を掛ける。――嗚呼、気付いてしまった。否、気付かないようにしていた恐怖を意識してしまった。
僕を無事に送り届けてくれた恩人の、僕を起こそうと出した「おーい」という声が、あの無人駅から聞こえたものと全く同じだった事実。頬の産毛が逆立つ。気温に対して過剰なまでの寒気。
近付く自動車の控えめな走行音から逃れるように、僕は家に飛び込んだ。
当然この文章こそが僕の無事を証明するのだが。恐怖体験は、ここで終わる。駅での出来事は、男性の正体は。偶然だったのかもしれない。単に僕が類似した内容のホラー映画を観た直後で、自らいらぬ恐怖心を植え付けてしまっていたのかもしれない。
恐怖の種は、いつも自分の中にある。
完
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