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頑張りの絶対評価と相対評価



「絶対評価と相対評価」
なんて言葉を聞いて思い浮かべるのは、きっと学生時代の成績の付け方なんじゃないだろうか。

まさにわたしがこの言葉たちを知ったのはその場面。

学生時代をゆとり世代ど真ん中で送ったわたしは、もちろん絶対評価をしてもらってきた。
絶対評価っていうのは、周りの点数に関わらず、自分の成績だけを判断材料にして成績をつけてくれるということ。(だったはず…。)
自分が頑張っただけ結果がついてくるのだから、すごくやりやすかったと思う。

それに対してわたしの母が学生だった頃は、相対評価が導入されていたらしい。
これは、たとえばはじめに「5の成績をつけるのは学年で10人」と決めて、バッサリそこで区切るという方法。

つまり自分が95点をとっていたとしたら…

絶対評価ならたぶん、5をもらえる。
だけど相対評価なら、100点の人が10人いたら自分は4になってしまう。
自分の頑張りとは関係なく、周りと比較して成績をつけられるということだ。

もしわたしが相対評価で学生生活を生きてきたとしたら…叶わない人が10人いると思ってしまえば、もう勉強したくなくなってしまうかもしれない。

もちろんそこでモチベーションを上げて、その10人に入れるよう努力できる人もいるのだろうけど。
でもたぶん、それが子どもたちの負担になるから、相対評価は絶対評価に変わったんじゃないだろうか。
事実はわからないけれど、わたしはそんな風に思う。

こうして平成という時代が進むに連れて、「組織」より「個々」に注目される流れが始まった。

とはいえまだまだ「組織」を重要視する風潮は根強いとは思うけれど…それでも個人の自由みたいなものに対する理解は大分深まったような気がしている。

そうして令和になったわけだけど…未だに、社会において無意識に相対評価している人を見かける。

それがどんな人かというと、

「あんなの頑張ったって言わないよ。」

「対して頑張ってもいないくせに。」

なんて言う人たちのことである。

一見この言葉を聞くと、「そんなひどいこと言う人がいるの?」と思うかもしれないけれど、一度自分に問いかけてみてほしい。

「一度もこう思ったことはない?」

答えはきっと、ノーの人も少なくないんじゃないかな。

かくいうわたしも、ここから頑張りの相対評価について反論していくけれど…正直、思ってしまったことはあるのだ。

まだ幼かった頃、買い物中に弟が「もう歩けないよ~」と言っているのを見て、「そんなわけないじゃん。対して歩いてないのに。」と何度も思った。

幼かった彼にとって、大人の後をついて歩くのがどれだけ辛く、ここまでどれだけ頑張っていたのか、想像もせずに。

だからここからは、他人の頑張りを相対評価した覚えのある人もない人も、ぜひ自分に置き換えて考えてみてほしいなぁ、なんて思う。

大人になった今、「他人の頑張り」について話題に上がりやすいのは、やっぱり仕事についてかな?

同僚だったり部下だったり会社関係はもちろん、風の噂で聞いた同級生の退職話なんかでも、聞かれることがあるんじゃないだろうか。

「あの人、半年で仕事辞めちゃったんだって。」

時間の捉え方というのは人によって違うけど、仕事の半年というのは一般的には、短いと捉えられる期間。

だからやっぱり、ネガティブに捉えられることが多い印象を受ける。
そこで登場するのが、勝手な価値観による相対評価。

「そんなにすぐ辞めるなんて、根性が足りないな。みんな頑張っているのに。」

「残業キツいって、そんなの自分だって一緒だよ。もっと頑張れただろ。」

人は誰でも主観しか見ることができないから、自分と比較してしまうのは当然なんだけど。
でも自分の感覚が他人も同じだと信じるのは、少し凝り固まっているのかもしれないと思う。

「具材の水分をきる」という役割を持つザルでも、「目が粗く水分の他に小さな具材も流してしまうもの」と「目が細かく水分だけを流すもの」がある。

それは形が違うのだから当たり前のことで、どちらがいいとか悪いとかではなく、それぞれに違った役割がある。

ザルでいえば、目が粗い方がより早く水を切れるし、細かすぎていらない具材も効率よく避けられる。
目が細かいと必要なものを流さなくて済む。

これはきっと全てのものに言えることで、人間だって当たり前にそうなのだ。

人間なんだから同じ仕事をできて当たり前だと思いきや、人それぞれ向き不向きがあるもの。
だから自分にとって楽だと感じる仕事も、あの人にとっては苦手で大変、だけどものすごく頑張っているのかもしれない。

そしてたとえ半年で仕事を辞めてしまったとしても、その人なりに頑張った背景があったはず。

その人の頑張りの容量がどこまでかなんて、傍から見ている私たちにはわかるわけがないんだ。
でもだからといって、わからないままで、わかろうともしなかったら、相対評価しかすることはできない。

もちろん他人同士が集まって仕事をしていく中で、相対評価をしなければならない場面もやってくる。

人間の生活がかかっていて、何か大きな決断をする時にはそちらが必要になってくることもある。

だけど1人の人間として見た時に絶対評価の心を持っていれば、かけられる言葉は変わってくるはずだから。

そして1人でも多くの人が自分と他人が違うことを理解して、絶対評価の心を持つことができたら…

「頑張りが足りない」
なんて言葉は、絶対に出てこなくなるだろう。

だって頑張ったか頑張っていないかは、他人のものさしで測れるものではないのだから。

だからもし、

「みんな頑張っているのに、わたしは頑張れなかった。」

「根性がなくて恥ずかしい。」

と思っている人がいたら、もしくはあなたが思っているのなら。
そんな風には思わなくていいんだよって、言ってあげたい。

頑張りというのは、絶対評価されるべき。
というより、周りと比べる必要なんかないのだから、自分で評価しちゃってあげていい。

自分が頑張っているかわからなくなるほど考えているあなたは、もう十分頑張っているんだよ。

それでももっと頑張りたいと思うのなら、他人ではなく、過去の自分と比べてみること。
そして、忘れずに絶対評価をしていこう。


この「絶対評価と相対評価」についてはわたしがずっと前から感じていたことで。

今まで辞めてしまった色んなブログに、熱く書いてきたことです。

頑張っている、頑張っていないを他人から決められるのにすごく違和感を感じたので書いてみました。

誰かの心を少しでも軽くできますように。

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