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コロナ禍、オリンピック、フジロック開催を経た2021年晩夏の今の混乱とその融和に向けて ーこれを投稿しても、相変わらず不毛で愛のないやり取りがネット上では繰り広げられるのだろうね それでもー

生きていくために必要か?これは自分が生きていくために本当に必要なのか?

その基準は一人ひとりばらばらで、同じにはなれない。そんな想像を絶する1億2000万の膨大な群衆の中で、大小様々な覚悟で、選択したり選択しなかったりしながら生きているのが今だと思う。

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それぞれの人が自分の仕事に価値や意義や情熱をもっている。人生をそこに賭けてきている人ならなおさら。その上で、自分たちが傷付きながらでもリスクのあることを決行するのは、自分や大切な人たちが生き残るためにはやるしかないというぎりぎり状況に立たされているからじゃないかと思った。今年のフジロックがかつてない様々な対策を講じて有観客開催されたのは、それを稼ぎにして生きている人がいるからだと思う。また、政治家がオリンピックを国民の大半の反対がありながらでも対策を強化して無観客開催したのも、巡りめぐっては本人たちが生きていくために必要なことだったのかもしれないとも思った。同じように、要請を聞かずに店を再開させる飲食店も、もう再開しないと生きていけないのだろうと思う。

みんなぎりぎりまで他人を傷つけないようにうまくやろうとしてきた。けれど、個々の判断の最後には自分と自分の1番大切な人たちを守るしかない。この長い長いコロナ禍を経て、今そういう決死の思いがいくつも形になって見えてきているんだと思う。

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この前提の上で議論をしないといつまで経ってもまとまらない。コロナ禍が始まった2020年の春は、稼ぎの命綱である仕事ですらも止めることが、自分や誰かの命を守るための圧倒的な善であることに誰もが納得していた。でも1年半を過ごすうちに、稼ぎがないと生きていけないことをじわじわと突き付けられる。さらにその仕事に意義を見出していればいるほど、その職を捨てて生きていくわけにはいかないという葛藤にさいなまれることになる。

今そういう状態であるということを理解した上で話をすること。そうすれば、もう限界の人たちの行動を理解することができるんじゃないのか。批判や分断に向かうよりも、歩み寄って話を聞こうと思えるんじゃないか。

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切り取られた情報で善悪を自分の基準で判断するのは簡単。けれど、もうとっくに世の中そんな簡単な話じゃなくなっている。国民の反対が多くても五輪がやめられなかったのは、今の日本政府が国民のことだけ考えていられるようなそんなシンプルな立場にいないからだろう(一国民としては虚しく悲しいが)。それでも国民の中に反対意思を示した人たちがいたのは、まさに自分たちが自分や身近な人たちを守ろうとする日本国民だったからだろう。立場や考え方は異なるものの、みんな他人をできるだけ傷付けないようにしながら、それぞれが生きるためにもがいてきた。

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何が足りていないのか。それは対話をすることじゃないか。面と向かって話し合うこと。Twitterの文字制限の中での話じゃないよ。本気で何かを変えたいと思っているなら、1時間でも2時間でも、今日でダメならまた明日にでも。お互いを理解しようと思いやりの心をもって、自分も相手も周りも幸せになれる方法を探していくこと。その先にこの閉塞感のある今を抜ける答えがあるはずです。(それがめんどくさいならすべての批判はただのうさ晴らし。人を傷つけながらすることではない。)友だちや彼氏彼女、夫婦同士の喧嘩も全部そうじゃないか。時間をかけていい塩梅を見つけていくしかない。

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これは本来ならリーダーが指揮を取ってやれることだと思う。国のリーダーが首相ならば、それは首相がやることだと思う。政権批判なんていう思考停止の話じゃない。みんなの中心に立ってまとめる人の在り方の話。

でも、リーダーが頼りないなら、それ以外のみんなでやるしかない。だから喧嘩したり決別したりしてる場合じゃないんだよ。SNSの限定的な枠の中でのやりとりを議論だと勘違いしている場合じゃない。

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ただそれだと影響力や権力のある人と話せないかもしれない。それは本当にその通りで、もともと僕らはそんな人たちと話すことなんかできない。ましてや議論をして何かを変えるなんていう深くて濃い話は、僕ら庶民は彼らとできるはずもない。

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じゃあ、誰となら有意義な話ができるのか。それは友人や家族くらいしかいないんじゃないかな。それくらい、もともと僕らは小さいんだと思う。

ネットのせいで自分がいろいろな段階を飛び越えた気になってしまうけれど、半分は錯覚でしかない。ましてや総理大臣や有名人に自分の声が届いたとしても、そこで前向きな議論ができるわけがない。言葉を投げて、自分だけの正義の石ころを投げて、なんだか満足した気持ちになるだけ。仮に何かの段階を飛び越えられたとしても、深くて前向きな議論をすることは限られた時間と空間と文字数の中ではできない。文字はそんなに万能じゃないし、上手く使える人ばかりじゃない。頼れるのは、面と向かっての対話だけ。

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議論において文字ができることは、せめて限定されない空間にまとまった文章で在ることだと思う。広いスペースで言葉を補完し合って、誠実に考えを綴ること。そうして、読む人の思考の足場になることが文字にはできる。この文章も、一人でも多くの人の実世界での議論のきっかけになったら嬉しいと思って書いています。これからの社会をどうにか明るい方向へみんなで向けていく。その一つの踏み台になりたい。

今日も僕は家族とあーでもないこーでもないと話をする。友人と、あれはないよな、でもこうすればいいかもなって話を続けようと思う。混乱の是正よりも数字稼ぎしかしていない下手なスポーツ新聞や週刊誌のネタに踊らされて安易に判断している場合じゃない。どっかのだれかの断片的な写真や発言に染められて発信している場合じゃない。急がば回れ。庶民が庶民らしくそれぞれの目の前の人と濃厚な対話を交わし続けた総和の先に、この国で生きる僕らの方向が決まっていく。それが庶民のできる社会参画だし、世論形成への近道だと思う。

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地道にいこう。これを投稿しても、相変わらず不毛で愛のないやり取りがネット上では繰り広げられるだろうね。それでも、僕はここに小さな足場を作っておきたい。そうして、自分の小ささを自覚しながらも、燃える山火事に一滴ずつでも水を垂らし続けるハチドリのように生きていたい。そんな仲間が1人でも増えたら嬉しいです。戦争よりも対話と思考を。

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最後まで読んでくれてありがとう。そして僕も今小さな小さなミュージシャンの一人として、この気持ちと僕から見える世界を、これからの自分の音楽に変えて生きていきます。いつまでも、お元気でいてくださいね。


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