【29歳無職日記】働く意味について
2024年8月20日
「あぁ、働きたくない。」
最近毎日のようにそう思っている。
ずっと、働いていないと落ち着かない、手を何かしら動かしていないと無理、みたいな人種だと思って生きてきたはずなのに。
「あぁ、働きたくない。」
自分でも驚くほどに働きたくない。
そう感じるたびに、私はいつも自己に問う。
「なぜ、働きたくないのか。」
「そもそも、なぜ人は働くのだろうか。」
「働くことの意味とは。」
と。
無職の特権「自由な時間」を存分に使って私はこの問いの答えを探る。
さまざまな仮説を立て、一人で頭の中で実証してみて、ああでもない、こうでもないとうなりながら、ときにインターネットを開いて、書物を開いて、その答えを見つける旅に出る。
お金のため?社会のため?それもやりがい?
そして気づけばその難解な問いに答えるのをあきらめて空想に浸る。
自分がこの先また働く選択をする世界線を想像して、このまま働かずに生きる世界線を想像して、一喜一憂する。
ごちゃごちゃとぐるぐると
考えて、想像して、浸って
そしていつもたどり着く先は決まっている。
働くことの意味なんて考えないほうがいい。
と。
たぶんこれ以上考えたら、病んで溶けて、自分が消えてしまう。
そう危機意識がはたらいて考えることをやめる。
そしてしばらく経ってまた、考えはじめて、また同じところで危機意識がはたらいてやめる。
その繰り返し。
結構しんどかったので、最近やっと、そのループを断ち切るコツみたいなものを自分なりに見つけてきて、だいぶましになったけど、それでもふとした瞬間に、特に急に訪れる眠れない夜なんかにぶり返して焦る。
そんな毎日を送る私が、久しぶりに働くことになった。
久しぶりの労働
私は今現在、失業保険を受給中なのだけれど、受給期間中でも週に20時間以内であれば働いてもOKというルールがある。
それにあやかって、私は前々から前職の同僚に相談されていた、夏の繁忙期シーズンのヘルプとして、数日間、短時間だけ働くことになった。
無職になって早1か月、すでに働いていた頃の日常ルーティンが崩壊している私は、始業時間を調整してもらって(非常にありがたかった)、他のスタッフよりも少し遅い時間から、久しぶりに前職の職場に向かった。
職場に着くなり、元同僚にとめどない感謝の言葉を告げられる。
「ほんとうに、ほんとうに助かった。ありがとう。」
と。
悪くない。
ただ出社しただけなのにこんなに感謝されたことなんて今までに一度もない。ちょうどその日は、もともと提示されていた日程に追加で、他スタッフが体調不良で休みになったところだったので、余計にありがたかったらしい。
軽く説明を受けて、久しぶりに接客に入る。
お客さんの質問に答えたり、案内したり
手が空けば、掃除したり、溜っている雑務をこなしたり
最初はブランクも長かったので手間取ることもあったけれど
その職場では過去に3年間、身を削って働いていたかいもあったのか、勘を取り戻してみるみるうちに私はその当時と同じくらいの感覚(自分が感じているだけかも。)で黙々と業務をこなした。
悪くない。
お客さんに感謝されるってこんなに気持ちがいいことだったんだ。
とか
館内を掃除してきれいになるってこんなにすがすがしい気持ちになるんだ。
とか
雑務をしながら、黙々と考えずに手だけ動かすって意外と楽しい。
とか
気づいたら
こんなにあっというまに時間って過ぎるんだ。
とか思ったのと同時に、いつの間にか終業時間になっていた。
「本当に助かった!前一緒に働いていたときも思ってたけど、○○さんほんとに手際いいね。今日忙しかったから、まじで助かったよ。ありがとう!」
悪くない。
久しぶりにこんなに全力で褒められた。
とてもいい気分で職場をあとにして、帰り際に私はご褒美ビールとスイーツを買った。
デザートくらいでちょうどいい
家に帰って
シャワーを浴びて汗を流して
母が作ってくれたうどんを食べて
そして買ってきたビールを飲む。
のどごしがいつもよりいいように感じて
味もいつもよりおいしく感じた。
そしてそのままスイーツに食らいつく。
甘い、そしておいしい。
久しぶりに大好きなチーズケーキを食べた。
もちろん脳裏には、無職でただ1日働いただけなのにご褒美やりすぎみたいなもう一人の自分の声も聞こえてきたけれど
十分に無視して、私はおいしいビールとスイーツを味わった。
幸せな気分だった。
そして思う。
働く意味なんてきっと、メインじゃなくてデザートくらいでちょうどいい。
と。
人生をフルコースのディナーに例えたとき
私は今までずっと
仕事をメインにして生きてきた。
毎日毎日働いて働いて働いて
残業して、休日出勤して、休みの日も仕事のことを考えて
気づいたらメインしかなくなってた。
本当は前菜も、デザートも、一緒に味わうワインもどんなに忙しくてもあったはずなのに
家族も、友人も、恋人も、自分のひとりの時間もすべてなくなってて
気づいたら一人でメインだけ食べてた。
別にメインがおいしくないわけじゃない。
おいしいし、味わい深いし、贅沢な時間をくれる。
けれど、メインだけ食べていると、なんだか身体が重くなる。
なんだか心が重くなる。
そうやって前菜とデザートの意味を悟ったときにはもう遅くて
メインでお腹いっぱいで、食べられなくなってた。
おいしく味わえなくなってた。
そして私はもう、毎日食べていたメインが嫌になって今に至る。
おいしく味わったビールとチーズケーキがなくなって
けれどまだ心と口に残っている余韻に浸る。
きっと今、私に必要だったのは、デザートとしての仕事だったのだと思う。
人生のメインじゃない
短くて量は少ないけれど、とても幸せなひとときと際立つ甘さをくれるデザートとしての仕事。
今日の私の久しぶりの労働がそう呼ぶにふさわしいものだった。
どうしてだろう。
そもそも働く意味ってもちろん、お金を得るためという目的が一番大きく前提としてあるけれど、働いている先には、対価を支払う顧客がいて、そのサービスに対して喜んでくれるお客さんの、関係者の笑顔が本来あるはずなのだ。誰かの問題解決のために働く、誰かの笑顔のために働く。
そしてそこから自分も喜びを得る。
それを人は「やりがい」と呼んだりもする。
それなのに
なぜか、いつだって
その途中でその喜びを感じられなくなってしまう。
目の前に降りかかってくる仕事をこなすことに必死で、誰かの問題解決になっているとか、喜んだり、感謝されたりしていることに
驚くほどに全く気付かない。
「悪くない。」
そんな表現でとどめてしまってしまったけれど
今日一日私は内心飛び上がるほどにとてもうれしかったのだ。
いつの間にか忘れてしまっている
働くことによって、誰かに感謝されるという感覚を。
そしてそれによってもたらされる自分の喜びを受け止めて感じるという感覚を。
しばらくリハビリしようと思う。
仕事をメインにしていたときに忘れてしまっていた
働く意味とかじゃなくて、働く喜びを取り戻すために
デザートくらいの感覚にして
ううん、別にデザートにさえしなくたっていい。
その喜びの感覚は思い出したのだから。
あとは、自分がもう一度誰かのために何かをしたいと
仕事をしたいとそう思えるまで
死ぬほど休んでやろうと思う。
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