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“生かすため”の議論を。

一人暮らしをしながら介護の仕事をしていたとき、無資格で中卒だった私の手取りは、10万円前後だった。そこからアパート代、光熱費、携帯代、保険代、駐車場代含む車の維持費を支払って手元に残った額が、私の食費だった。

擦り切れた下着を履き続け、靴下の穴は小学生の時から使い続けている裁縫セットで縫った。同年代の友人たちが大学へ通い、バイト代で海外旅行の計画を立てている。羨ましいを通り越し、もはや別次元の世界の物語を聞いているような気分だった。


インスタントラーメンは、貧しい生活を送る私の頼もしい味方だった。5袋入って安いものだと198円。給料日前の1週間をインスタントラーメンと米だけで凌ぐのが、当時の私の常だった。

スーパーに行くたびに、黒い考えが頭を過った。“万引き”という行為の卑劣さを知っていながら、強い欲求がぞわりと背後から忍び寄る。慌ててその衝動を掻き消すかのように、必要なものだけをカゴに入れ、早足で店を出た。外の空気を吸い込み、やるせない思いで苦いため息を吐いた。

私が万引きを我慢できたのは、自制心が強かったからではない。未成年で捕まったら、親元に連れ戻されるからだ。

虐待を受け、食い物にされる毎日。そこに戻るくらいなら、飢えて死んだ方がマシだと思った。


インスタントラーメンさえも底を付き、白米と麦茶だけをもそもそと口に運ぶ夜。残金13円。納豆すら買えない。そんな日は一度や二度ではなかった。

テレビをつける。そこには、きらきらと眩しいスイーツのお店を訪れる、可愛らしい食レポアナウンサーの姿があった。

「美味しいものを食べると、嫌なことも吹き飛んじゃいますよね!」

艶のある笑顔でそう話す口元は美しく引き上げられていて、その人にだって誰にも言えない悩み事の一つや二つあっただろうに、当時の私はそんなことすら考えるに及ばず、テレビの電源を消して怒り任せにリモコンを床に叩きつけた。


みんなが当たり前に持っているものを、持ち合わせていない。

そのことを、あの頃の私はどうしても受け入れることができなかった。


卑屈に歪んでいく心に栄養を与えるためのもの。それを手に入れるために必要なお金すら、私にはなかった。

貧困は、精神を蝕む。驚くほど分かりやすく、心を軋ませてしまう。もちろん誰しもがそうだと言っているわけではない。お金がなくとも心豊かに生活できる人は、きっとたくさんいるのだろう。

しかし、と思う。それは憲法で言うところの「健康で文化的な最低限度の生活」が保証された上での話だろう、と。

お腹が空いても納豆も買えない。水道水がどんなにカルキ臭くても、48円のペットボトルの水も買えない。血を吐いて胃に穴が空いているだろうと推測できても、病院にも行けない。そんな生活の上に豊かさを築くことなど、おそらく不可能だ。


虐待を受けて育った。耐えきれず逃げ出した。そんな私を待っていたのは、情け容赦ない貧困に押し潰されそうな毎日だった。

学歴。職歴。資格。保証人になってくれる保護者。

それらを身に付けるまで我慢できなかった私が悪いのだろうか。それらを身に付けるまで我慢していて、私が生き延びられた保証もないのに?そもそも、私の親は保証人になんかなってくれるはずがなかった。彼らにとって私は所有物であり、愛すべき存在ではなかった。

息子たち二人も、里帰り出産などしなかった。どちらも一人で産んだ。産後退院初日から、洗濯も掃除も炊事も全て自分でやった。

苦しいときに駆けつけてくれる親が、助けてくれる親が、私には居なかった。


虐待を受けて子どもの命が奪われるたびに、ニュースのコメンテーターが声高に叫ぶ。

「またしても、虐待の連鎖です」


連鎖、連鎖、連鎖。

何故連鎖するのかを、報道する側は知っているのだろうか。知っているのなら、原因だけを解明して終わりにするのは、もうやめてくれないだろうか。

どんな物事にも原因はある。そして、原因がわかっているなら対処の仕方だってあるはずなのだ。そこを報道しないで、どうやって虐待を減らせるっていうんだろう。

「虐待は連鎖します」

訳知り顔でそう言う暇があるなら、連鎖を食い止める方法を一つでもいい、報道してほしい。連鎖せずに済む社会を作るにはどうしたらいいのか、当事者の話に真剣に耳を傾けながら本気で考えてほしい。


命が消えてから騒ぐなら、救い出せるうちに騒いでくれ。


祈るような想いで叫ぶように此処に文字を記すだけの私に、ニュースキャスターを責める資格なんてない。分かっている。簡単じゃないことくらい。

それでも諦めたくないから、伝えられることを文字にする。


虐待と貧困はセットだとよく言われる。それは何も親の貧困だけの話ではなく、虐待から逃れた後の生活さえも貧困に晒される現実がある、という意味でもある。

逃げて終わりじゃない。そこから新たな闘いが始まるのだ。そしてその闘いは、短くも生易しくもない。そこに援助の手があるかないかで、連鎖の鎖をほどけるかどうかが大きく違ってくる。


虐待被害者は本人にその自覚がなくとも、PTSD等の心的外傷、その他精神疾患を患っている場合が少なくない。適切な治療が必要で、そのためには決して低額とは言えない治療費がかかる。カウンセリングを1回5000円として、月3回受けたとする。合計15000円。そこに安定剤、睡眠導入剤などの必要な投薬療法が組み合わさった場合、治療費の月合計は優に20000円を超える。

食事すらままならない生活水準の人は、連鎖を食い止めるために必要な治療さえ受けることができない。そして、虐待被害者が大人になってからの生活水準は、基本的に著しく低い場合が多い。もちろんそうではない場合もある。あくまでも確率的な話だ。

ここが改善されないことには、同じようなことは幾らでも起きる。私は数回だけ受けたカウンセリングと書籍を元に、セルフカウンセリングを繰り返して少しずつ精神を再生した。しかしその方法は、万人に勧められるものではない。セルフカウンセリングは、やり方を間違えると危険な側面もある。私自身、何度もその深みにハマった。その恐ろしさを知っているからこそ、安易に誰彼に勧める気にはなれない。


「何故、虐待は連鎖するのでしょう」

ブラウン管の向こう側の人が沈痛な面持ちで問うたびに思う。

連鎖の要因なんて、掃いて捨てるほどある。「貧困」はそのうちの一つに過ぎない。

要因をあぶり出すことを無駄だとは言わない。でもそろそろ、違う方向から物事を見ることはできないだろうか。


連鎖していない人もいる。その人たちは子どもに危害を加えないから、報道されることがない。表には出てこない。でも、たしかにいるのだ。

何故、連鎖しなかったのか。どうすれば防げるのか。そのために必要な支援と、その仕組みを作るにはどうしたらいいのか。そこにフォーカスして報道することはできないのだろうか。


以前も書いたことがある。何百、何千の花束を手向けたところで、死んだ命は還らない。

“生かすため”の、議論を。どうか、1日も早く。

そう願わずにはいられないのは、きっと、私だけではない。日本中、世界中でたくさんの人が声を上げている。その声は人それぞれで、方向性も考えかたもみな一様ではないだろう。

それでもきっと、根幹にあるのは同じ想いだ。


もう誰にも、死んでほしくない。


たったそれだけの願いを、掌で握り潰してしまう前に空に放つ。声に出す。

一人にでもいい。どうか、届きますようにと。



最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。 頂いたサポートは、今後の作品作りの為に使わせて頂きます。 私の作品が少しでもあなたの心に痕を残してくれたなら、こんなにも嬉しいことはありません。