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あなたのショートケーキを奪ったのは、今あなたの目の前でショートケーキを食べている誰かではない。

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7月も後半に差し掛かりました。紫陽花から向日葵へ。薄緑から濃緑へ。外を歩けば蝉の声がわんわんと唸っており、木陰のあちらこちらに茶色の抜け殻が見られるようになりました。

もうすぐ梅雨が明け、盛夏が訪れます。今年の夏はいつもと色々なことが変わってしまうけれど、そんななかでも楽しめるものを探し、出来る限り笑顔で過ごしたいと思う今日この頃です。


先月の定期購読マガジンの収益の半額を、いつものように児童虐待防止運動に携わっている「オレンジリボン」団体に寄付させて頂きました。

収入金額は単純に、寄付金×2と思ってもらえればと思います。寄付は1000円単位からとなっているので、端数が500円以上の場合はそこに自身のお金を上乗せして寄付に、500円以下の場合は私自身の活動費、創作費に宛てさせて頂きます。
当然ながら、寄付金の額を公表することでマガジンの購入を煽る意図は一切ありません。感謝の気持をお伝えしたいという想い、当初宣言した通りの収益の利用方法を実行している証明のためだけに載せています。


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今月は9000円の寄付を贈ることができました。定期購読マガジンを購入してくださっている皆さま、単体記事を購入してくださった皆さま、いつも本当にありがとうございます。


ほとんどの人が親から当たり前のように与えられているものを与えられなかった子どもたちが、それでも未来に希望が持てるように。安全な温かい居場所を見つけられるように。そういう世の中にする分かりやすい改善策があればいいのに、とよく思います。虐待問題が世の中に広まって久しいのに、未だに歯ぎしりするしかない事案が多数耳に入ってきます。テレビのニュースになるのは子どもが重篤、もしくは亡くなってしまったときだけ。その水面下で、ぎりぎりの境目を生き延びている子どもたちがいます。


昔の私が望んでいたのは、たった一つでした。強制的に親から引き離して、あの家から腕を引っ張ってでも連れ出してくれる大人を、ひたすらに待っていました。安全な場所で、温かい人間と共に暮らしたかった。それだけを願っていました。

そういう環境を当たり前に享受している周りの同級生たちを見るたびに、目の前で大好きなショートケーキを見せつけられている気持ちでした。私だって食べたい。私だって、それがほしい。いつもそう思っていました。でも、それは叶わなかった。そして永遠に叶うことはありません。

私は母親として子どもを愛することはできるけど、両親から「普通に」愛される経験を死ぬまで味わうことはできません。その事実を正面から受け入れられるようになるまでに、たくさんの時間を費やしました。その時間は、とても苦しいものでした。今でも苦しくなることはあります。でも今は、人への妬みを攻撃に転じる愚かさがわかっているぶん、昔より随分と生きやすくなりました。

私はここで何度も、「助けて」と叫んでいい、と伝えてきました。そのことを繰り返し繰り返し書いてきました。今日はそのSOSの出し方について、少し深堀していきたいと思います。


基本的に、SOSはストレートに出さなければ受け取ってもらえません。

これを読んで「当たり前じゃん」と思える方は、おそらく大丈夫です。この当たり前のことが、苦しみの只中にいるときにはとても難しくなってしまうのです。

感情には一時感情と二次感情があります。
「寂しい」「苦しい」「辛い」
これらの一時感情は、「怒り」という二次感情に容易にすり替わります。今までも書いてきたように、私は「怒り」や「憎しみ」の感情そのものが悪いとは思っていません。ただ、SOSを出す際にはこれらの二次感情は邪魔になってしまう場合があります。

あなたが怒っていい相手は、あなたを傷つけた相手だけです。私の場合は、私の両親や旦那がその対象に当たります。(虐待、性行為の強要を含むDVの被害にあったため)それ以外の人、ストレートに言ってしまえば、あなたが持っていないものを持っている人に向けて理由もなく怒るのは、単なる八つ当たりに過ぎません。

人は、強い感情をぶつけられると逃げ出したくなります。それが攻撃性の高い「怒り」という感情なら尚更です。なので、助けてほしいときはその気持ちだけをストレートに言葉にしましょう。

「あなたには言ってもわからない」
「あなたはいいよね」

これらの言葉を使うことにより、肝心の「辛いから助けて欲しい」という本筋のメッセージが極端に見えにくくなります。

何が起こっていて、どういう被害があって(もしくは過去に被害があって)それにより辛い、苦しい、痛い、寂しい。だから、助けてほしい。

人にSOSを出す際は、こういう伝え方が一番理解してもらえます。


今日、以下のツイートをしました。

「いいな」と思う。「羨ましいな」と思う。その感情そのものを責める必要はありません。それを他者への攻撃の免罪符にしなければ、それで充分です。

羨ましいのは当たり前です。だって、人は誰しも虐げられるより、愛されたい生き物だから。

ふいに湧きあがってくる感情まで自ら責めて蓋をしてしまうと、それが変なカタチで爆発してしまいがちです。「羨ましい」と思っていいんです。ただ、その思いを不用意に誰彼構わずまき散らすのはお互いのためになりません。

例えば、ご両親にとても愛されている人に対して、私が「あなたはいいですね。両親に愛されて。羨ましいです」と伝えたとします。どんなに丁寧な言葉を使ったところで、これを言われた側は相当な負担です。そういう行為をすることは、相手のためにはもちろん、自分のためにもなりません。何故なら、人はこういう発言を重荷に感じて離れていくものだからです。人が離れていくことで、自分の心は更に傷付きます。そして、周りも苦しくなります。


以前、医師に言われた一言がずっと胸に焼き付いています。

「寂しいからって腕を切っても、その感情は誰にも届かない。その伝え方は、自分も周りも傷付ける。負の感情だからこそ、ちゃんと声に出して身体の外側に出してあげよう」


真っ直ぐなSOSを出せなくなった一番の原因は、おそらく「真っ直ぐなSOSを出して受け取ってもらえたことがない」という心の痛みからくるものでしょう。たしかにそういう場合もあります。誰しもが受け止めてくれるわけじゃありません。そのことにより伝え方が過激になってしまうのも理解できます。実際、私自身もその道を通ってきました。だからこそ、伝えたい。

真っ直ぐなSOSを受け止めてくれる人は、必ずいます。
回りくどい攻撃を含めたメッセージは、まず届きません。


「私のことなんかどうでもいいんでしょ」と言うのではなく、「寂しいから会いたい」と言えたら届くかもしれない。

「私の気持ちなんか絶対わからない」と言うのではなく、「不安だから手を繋いでほしい」と言えたら伝わるかもしれない。

ほんの少し。口から溢す前に、ほんの少しカタチを変える。自分の一時感情がどこにあるのかを、しっかりと見る。その上で出したSOSのほうが、明らかにキャッチしてもらえる確率は上がります。


手に入らないショートケーキが羨ましくなってしまったとき。心がささくれ立ってしまったとき。思い出してください。

あなたのショートケーキを奪ったのは、今あなたの目の前でショートケーキを食べている誰かではない。

それを見失わずに歩いていきたい。未だに見失いそうになる私は、だからこそこうして文章を書きます。今日の自分に嘘をつかないために。明日の自分が、己の書いた文章に顔向けできないことをせずに済むように。


本当は、誰しもが安心してショートケーキを味わえる世界ならいい。

そう思いながら、日々言葉を残します。

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