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優しい夏の休日

『愛情と欲情って何が違うの?』

突然そう聞かれて、奈都(なつ)は飲んでいたアイスコーヒーを危うく取り落としそうになった。いきなり何を言い出すんだ、この男は。

クーラーの効いた部屋で、恋愛映画を見ていた。コンクリートジャングルの照り返しに蒸し焼きにされるのは耐えられそうにない。私たちは北国の産まれだから、未だに関東の夏に慣れない。

わざわざ店頭に赴かなくても、指先一つで映画が見れる時代になった。しかも、月額料金を払えば多数の映画やドラマが見放題。わざわざ汗だくになって外に出る必要なんてない。私たちの夏の休日は、日の落ちる夕方までこうして引きこもって終わる。ネット検索で気になった映画を見たり、好きな漫画を読んだり、たまに重なったりしながら。


『何、急に。どうしたの?』

先ほどの質問にようやくそう返すと、京也(きょうや)は改めてこちらに向き直って話し始めた。

『映画とかドラマ見てていつも思うんだけどさ。何で愛情と欲情を分けようとすんのかなって。そんなの、地続きだろ?愛情は綺麗なもの。欲情は汚いもの。そんなふうに分けるから、ややこしいことになるんだよ。好きだから抱きたくなるし、触りたくなるのに。「身体だけが目当てなの?!」とかよく聞く台詞だけど、めちゃくちゃ惚れてる女が隣にいて、それを触らないように我慢するとか何の修行なんだよ、って俺は思うんだけど。』

あぁ、そういうことか。ようやく突飛な質問の意図が掴めた。

映画の中で、先ほど彼女役の子が涙ながらに訴えていたのだ。『私が好きなんじゃなくて、やれればいいんでしょ?』と。


『愛情がある行為だって感じられたら、不安にはならないんじゃない?雑にされたり、話しも何もしないままに行為だけに及んでそのあとすぐに帰るとか、そういうことを繰り返されたら、さすがに愛情=欲情とは思えなくなるんじゃないかなぁ。私も経験あるけど、終わった後急激に冷たくなったり、あり得ない言葉吐かれたりとかさ。そういうのが抉られるんだよね。』

『何それ。なんて言われたの?』

『「用済みだからあっちいけ」って。』

『うわ……それはないわ。それもしかして……。』

『うん、元旦那。』

京也が眉をぎゅっと眉間に寄せる。穏やかな彼が怒った時の、精一杯の表情。

『なっちゃんが離婚した一番の理由って、それ?』

『一番ではないよ。強いて言うなら、そういうことの積み重ねかな。』


映画の台詞から始まった他愛ない愛の話が、この上なく重い現実話になってしまった。思わず話してしまったけれど、京也に聞かせるべきではなかったかもしれない。

五年続けた結婚生活にピリオドを打ったのは、今から二年ほど前のことだった。私たちの間に子どもは居なかったから、紙切れ一枚で簡単に事は済んだ。名字を元に戻す手続きが多少面倒だったけど、私はそれ以上に安堵していた。

もう、醜い自分に向き合わなくても済む。愛されたいのに愛してもらえず、足りない足りないと喚き散らす自分。『夫婦なんだから』という理由だけで、言葉も温度もない行為に耐えなければならない苦痛。その度に沸き上がる、圧倒的な憎悪。

そういうものを、もう見なくても済む。それだけで、私は深く息が吸えるようになった。味のしなくなっていた食事も美味しいと感じるようになったし、喉元で詰まっていた言葉もちゃんと出せるようになった。


『愛情がなかったら抱けないもんだと、俺は思うんだけどな……。』

切なそうにそう言う彼の顔を見て、何だか心が弛む。

「世の中、そんな人ばかりじゃない」

そんな辛辣な想いが頭をもたげたけれど、それは言葉にするべきではないと分かっていた。京也は、そういう人なのだ。愛情がなければ抱けない人。愛する人だけを抱きたい人。


人を真っ直ぐ愛せる人にとって、愛情と欲情は実際京也の言う通り、地続きなんだろう。寂しいとか、隙間を埋めたいとか、そういう気持ちの中にも愛情がゼロだなんて言い切れない。ほんの少しでも相手のことを思いやる気持ちがあれば、それを愛情と呼ぶことは別に間違いなんかじゃない。

綺麗も汚いもない。どちらも存在するし、どちらも人が生きていく為には必要なものだ。


改めて、この人のことが好きだと思った。子どもの時と同じ名字に戻して一年が経った頃、偶然知り合えた同郷の男性。一つ年上の彼の話を聞く度に、私は私の中のささくれ立った部分が柔らかく撫で付けられていくのを感じた。

『なっちゃん。』

『ん?』

『俺は、やりたいから触ってるんじゃなくて、好きだから触ってる。でも、いつかなっちゃんが嫌がるような抱きかたをすることがあったら、その時はちゃんと言ってね。』


私は返事をしなかった。返事の代わりに、彼の唇を少し強引に塞いだ。

あぁ、こういうことか、と思う。

続いている。愛情の先に、こんなにも分かりやすく。


いつの間にか進んでいた映画は、終盤に差し掛かっていた。綺麗なバックミュージックが流れている。その緩やかな音楽を聞きながら、私たちは汗をかいた。エアコンの効いている部屋でさえも、暑く感じるほどに。重なって、揺れて、上り詰める。

歌の中でも、誰かが愛を叫んでいた。それをぼんやりと聞きながら、酸素の薄くなった頭で彼の囁きを感じていた。


こういう時、人は「愛してる」を伝えたくなるんだろう。そう思いながらも言葉には出来なかった。


外で鳴り響く夕方のチャイムが、夏の休日の終わりを告げていた。汗だくで満たされながら目を閉じる。カーテンの向こうに広がっているであろう、真っ赤な夕焼けを思った。


シャワーを浴びたら、手を繋いでお散歩をしよう。缶ビールを買って、二人で乾杯しよう。いつものようにお豆腐と枝豆を並べて、クーラーの効いた部屋で、今宵も優しい人と優しい夜を過ごすんだ。





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