見出し画像

【余力があるときだけでいい。どうか、一緒に考えてほしい】

波の音を聴きながら、ひたすらに沖の水平線を眺めていた。逆巻く感情の嵐が過ぎさるのをじっと待つには、それが一番いい。

昨年11月に精神科の医師から障害年金の申請を勧められた。必要な診断書類を各病院から掻き集め、ようやくそれらが揃ったのは先月の終わりだった。自身で書く申立書が最難関だった。何せ、20年ぶんの既往や生活状況を記さねばならない。しかも申請を通すために、辛かったこと、苦しかったことにフォーカスして書く必要があった。フラッシュバックを起こすのは目に見えている。重い腰を上げたのは、昨夜1時過ぎ。眠れない夜を持て余していた私は、意を決して書類に取り掛かった。

今までかかってきた病院名。その羅列を見るだけで眩暈がする。病院にはあまり良い思い出がない。閉鎖病棟に入院していた月日も含めて、辛いことが多すぎた。病院名の横に大きな空欄があり、そこに当時の状況を書き込んでいく。私が通院した病院の合計は、9軒にも及んだ。よって9軒ぶん、「当時の状況」として同じ言葉を羅列する必要があった。

・不眠、無気力、焦燥感が続く。
・強い希死念慮がある。
・自傷行為、薬の過剰摂取がやめられない。
・自殺企画をする。
・フラッシュバック、悪夢のたびに虐待されていた過去を思い出す。
・入浴さえもままならず、週に1~2度入れればいい方である。
・食事を受け付けず吐いてしまう。
・大量服薬により胃洗浄を受け、NICUに運び込まれる。
・記憶の欠落があり、混乱をきたす。

ざっと並べるとこんな感じだ。発狂するほど辛かった日々をこうして数行足らずでまとめるたび、心の奥がざらりとする。でも、しょうがないのだ。年金事務所にとって私は、数多くいる申請者の一人に過ぎない。一人ひとりの人生に向き合っていたら、おそらく仕事は一向に進まない。

胃液を吐きながら書いた申し立て書と診断書を握りしめ、車のエンジンをかけた。一睡もしていない脳みそは、不思議なほどに覚醒していた。ひた隠しにした怒りを、無理矢理飲み下す。自制心よ、持ってくれ。そう願いながら、片道20分の道のりをゆっくりと運転した。

私が住む地域の役所は、建物がとても立派だ。大地震でもびくともしなさそうな頑健な構造物。頼りがいのある風貌のはずなのに、私の足はわかりやすく竦んでしまう。

大して待たされることもなく、すぐに番号札を呼ばれた。しかしそこから書類のあれこれを確認するまでに、およそ1時間を要した。そして結果から言えば、本日障害年金の申請をすることは叶わなかった。

初診証明診断書に不備があったため、遠方の病院に書類を郵送して返送してもらわなければならない。尚且つ、現在通っている病院の診断書の有効期限が今月いっぱいなため、それに間に合うように返送してもらえなければ、新たに現在の病院の診断書も訂正してもらう必要があるとのことだった。
必死の思いで書いた申し立て書も、10以上の訂正箇所の付箋が貼られた。張りつめていた糸が切れて思わず涙が溢れたけれど、役所の担当の女性は、声色一つ変えることはなかった。

「助けてください」

伝えたいのはそれだけなのに、それを伝えるためには数多くの難解なステップを踏まなければならない。安定して働けない状態だから申請するはずの障害年金。それなのに、これを難なくこなせる人なら問題なく働けるんじゃないかと思うほどに手続きが複雑で、かかる労力も時間も膨大だ。

私が申請に向けて動き出したのは昨年の11月。今はもう4月だ。5か月経ってもまだ尚、申請手続きを終える段階にさえ辿りついていない。

私が今も食事を摂れて屋根のある家で暮らしていられるのは、大袈裟ではなくnoteの人たちが贈ってくれたサポートと、有料マガジンの収益のおかげだ。それがなかったら、私は経済的な理由から離婚に踏み切ることさえもままならなかっただろう。

昔から私の生い立ちを知っている幼馴染と、noteで出会った仲間。そして、私の状況を知りながらも信頼して仕事を任せてくれるクライアント様。他人である人たちの底知れぬやさしさのおかげで、私は今も生きている。

「助けてください」

何度も心でそう叫んだ。でも子どもだった私の声は、誰にも届かなかった。行政は私を見つけてはくれなかった。子どもの頃も、あの家を逃げ出してからも、大人になってからも。今の症状が虐待の後遺症であることは明らかなのに、それを証明する術さえも私にはない。

例えば今、私が自殺をしたとする。その死は100%、自死として扱われるだろう。「虐待死」としては扱われないのだ。例えそれがフラッシュバックによる苦しみからくる解離や、衝動的な自殺だったとしても。(例えばの話であり、そのつもりは一切ないので安心してほしい)
子ども時代に救われなかった大人は、自力で這い上がるしかない。私は幸い、その底力を持ち合わせていた。しかし世の中のすべての人が、火事場の馬鹿力を発揮できるわけじゃない。発揮できない人を「弱い」と責めるのは容易い。でもそういう人のために、本来であれば支援制度があるのではないだろうか。

「這い上がらない」のと、「這い上がれない」のは違う。
「don't」なのか「can’t」なのか。その境目をジャッジする権利が、一体誰にあるのだろう。
「苦しい」と泣き叫んでいる人に「まだ頑張れるはずだ」と言うのではなく、素直にその苦しみを信じたいと思う私は、自分の立ち位置に寄り過ぎているのかもしれない。でも、そう在りたいのだ。だって、その人の涙や痛みを否定する権利なんて、誰にもないはずじゃないか。

役所で働く人たちも、年金事務所で働く人たちも、記載ミスをする医師も、きっと誰も悪くない。システムの構造上のバグであり、それは一朝一夕で変えられるものではないからだ。決まった規律でしか動けない仕事が、世の中には溢れている。一人ひとり違うバックグラウンドに寄り添うだけの時間も、お金も、人材も、今のこの国には不足しているのだろう。
精一杯働いて、やれるだけのことをしてくれている人が大半であると思う。私の涙を見ても声色一つ変えなかった担当の人が、何も思っていないとは限らない。心を寄せすぎると自分を保てない。そういうケースが往々にしてあることを、経験から知っている。

誰も悪くない。それなのに、被害者が救われない。苦しいからこその「助けて」が、忙殺されるシステムによって掻き消されていく。

何を変えたらいいのか。何をしたら変えられるのか。どこに声を挙げたら届くのか。書類を差し戻された午前中から、ずっと考えている。
「ふざけんな」とも思ったし、「いい加減にしてくれ」とも思ったし、「いつになったらこの国は私を助けてくれるんだ」とも思った。でも、そういう言葉をぶつけるだけでは、きっと行政は耳を貸してくれない。

私は過去ではなく、未来を変えたい。過去に対する怒りや憎しみは消えないけれど、それは私個人の問題だ。私を傷つけた相手に怒りをぶつけるのなら正当な権利であろうが、救い出してもらえなかった行政に対して怒りをぶつけたところで、何が変わるわけでもないだろう。

同じ思いをする人がいなければいい。でもそのためにどうしたらいいのか、何をしたらいいのか、今の私にはわからない。自分の身一つさえまともに立たせられない私に、果たしてできることがあるのか。そう思う気持ちも正直ある。でもだからこそ、何もかもままならない思いを知っている今の私だからこそ、伝えられる現実がある。

理不尽だと叫びたい気持ちがないとは言わない。怒りも哀しみもやるせなさも、痛いほどに感じている。それでも、そこだけにフォーカスして生きていきたくはない。そんな生き方は、自分も周りもあまりに苦しすぎる。

画像1

「助けてください」

切実なその声が、疑われることなく響けばいい。
不正受給をする人がいるから、審査を厳重にせざるを得ない。その理由もわかる。国の財源に底があることも重々わかっている。でも今のこの状況のすべてを、それだけの理由で「しょうがない」で済ませないでほしい。「しょうがない」と思えるのは、自身の腹が痛まない人だけなのだから。

どんな家庭に産まれようとも、しあわせになる権利はある。美味しいものを食べて笑顔になったり、きれいなものを見て心が浮き立ったり、ほしい服を買っておしゃれをしたり、すきな花を一輪買ったり。そのくらいの楽しみを味わう権利は、本来誰しもあるはずなのだ。

奪われて、虐げられて、傷つきながら生きてきた。そんな子ども時代を過ごしてきた人が安心して療養できる環境をつくるにはどうしたらいいのか。私はこれからも、ずっと考え続ける。このnoteを最後まで読んでくれた人も、余力があるときだけでいい。どうか、一緒に考えてほしい。

私一人にできることは、あまりにも少ない。だから、力を貸してほしい。
知ること。考えること。そこからすべては始まると、私は信じたい。


最後まで読んで頂き、本当にありがとうございます。 頂いたサポートは、今後の作品作りの為に使わせて頂きます。 私の作品が少しでもあなたの心に痕を残してくれたなら、こんなにも嬉しいことはありません。