まだ雨季の頃だった。チン州の山から知り合いの男性がヤンゴンにやってきた。彼と知り合ったのはもう20年ほど前になる。ここではルィンさんという仮名にしておく。 2021年2月1日に起きたクーデターの後、ミャンマー中で大規模なデモが発生した。1988年のいわゆる「88民主化運動」のときも大きなデモが起き、軍は数千人(正確な人数は未だに不明)の一般国民を殺害した。88年の抵抗運動は、ヤンゴンなどの大都市が中心で地方は比較的静かだったが、今回はミャンマー全土と言えるほどデモなどの抵抗
ミャンマーでもタイのソンクラーンと同じように4月の中旬に水をかけ合う祭りがある。ティンジャン(ダジャン)と呼ばれ、今年は4月13日から16日がその期間だった。ティンジャンが終わると新年になる。しかし、一昨年はコロナで去年はクーデターだ。ティンジャンで水をかけ合う姿を見ることはなかった。 今年は、軍は一部で水かけやステージを開こうとしていた。ヤンゴンのダウンタウンの中心に市庁舎があり、そこに軍が祭りのためのマンダ(ステージ)を設置したのだ。しかし、軍の支配を認めない国民は今年
昨日の朝、地方に住む知り合いから連絡があった。以下はその人から聞いた話だ。 外が何やら騒がしかった。家から出てみると、家の前の道を何人もの男たちが歩いていた。銃を持った兵士や警察官たちと私服の男たちが一人の青年の腰にロープを巻き、引き回していた。幼さがまだ残る青年は叫んでいた。 「僕はPDFです。スー母さんの息子です」 PDFとはPeople's Defence Force(人民防衛隊)の略称で、武器を持ってミャンマー軍(国軍)と戦うグループだ。だが、本当に彼がPDFの一
2021年2月1日の早朝、徹夜明けの私は軍がクーデターを起こしたことを知った。それからちょうど1年後の2022年2月1日、9時ちょうどに目覚まし時計で目覚めた。 今日は午前10時から午後4時までサイレントストライキ(沈黙のストライキ)が予定されていた。去年の12月10日に行われたサイレントストライキでは、ヤンゴンのダウンタウンを歩いて回ったが、どこもゴーストタウンになっていた。 役所から届いた書類 私はストライキが始まった10過ぎに家を出た。まず、近くの小さなゼー(市場
「やつらは空からやってきた。空から爆弾が降ってくるんで、村のみんなは逃げるしかない。PDF(人民防衛隊)も逃げるしかない。そして、その直後に30人くらいの先遣隊が村に入ってくる。彼らは村にPDFがいないか確認した後、100〜200人の本隊がやってくる。無人の村でやつらはやりたい放題なんだ」 村は解放区となった ネーリン(仮名)はヤンゴンのある会社で事務職として働いている20代の青年だ。会社に入って数年になるが、ちょっと前まで両親と兄弟が住む村に帰っていた。サガイン地方にあ
ミャンマーでも12月は日が短かい。夕方の気配が漂ってきた午後4時頃、外から子供の物売りの声が聞こえたきた。聞き慣れない声だったので窓の外を見ると、まだちっちゃな少年と少女が頭にかごを載せて売り口上を唱えていた。彼らの言葉は私にはうまく聞き取れなかったが、頭のかごをよく見ると稲穂の束が並んでいた。 稲穂とスズメと功徳 この稲穂は人が食べるためではない、スズメが食べるためだ。今の時期、家の軒先や木の枝などに稲穂がぶら下げられているのをよく見る。スズメは米を食べて満腹を得て、人
ヤンゴンで最も人気のあるショッピングモール、ミャンマープラザを訪れたが、客が異様に少なかった。これからのクリスマスセールに向かって多くの店舗は開いていたが、客よりも店員のほうが多いほどだ。陽気なジングルベルのメロディーが人のいない不気味さを余計に引き立たせていた。 店内で抗議活動の若者たちを拘束 ベトナム資本のショッピングモールであるミャンマープラザはヤンゴンで最も人気のあるショッピングモールと言っていい。悲惨な地方でのニュースをよそに、最近のヤンゴンは一見日常を取り戻し
朝まだ暗いうちに友人の車で北へ向かった。ヤンゴンの街には車がほとんど走ってなかった。クーデターにより車の交通量が減ったからだ。特に暗いうちは、いつどこで軍に発砲されるかわからない。車はヤンゴンの北、マンダレーへと続くハイウェイの入口に近づいた。 陸路で地方へ行くことにした 最後に旅行に出かけたのはコロナ前、もう2年以上前のことになる。今年の2月には軍によるクーデターが起こり、ミャンマーは旅どころではない状況に陥った。私も2年間ずっとヤンゴンに幽閉状態だった。 クーデター
朝から静かだった。いつもなら花売り、煮豆売り、パラタ売りと、物売りの声が途切れないのに今日は違った。 数日前からサイレントストライキの話がFacebookに出ていた。その沈黙のストの日が世界人権デーでもある今日12月10日だった。ストライキの時間は朝10時から午後4時までだ。時計を見るとストライキ前の9時だったが、近くのゼー(市場)に行ってみた。開いていたのは3店だけで客はほとんどいない。 ゼーから出ても、とても静かで人はほとんど歩いていない。住宅地なのに住人が全ていなく
ラワカでの出来事 ビザの更新手続きで、ラワカ(住民登録の管理)の事務所に行ったときだ。 「あなたの書類を本部に持っていかなきゃいけないの。タクシー代を出してね」 私は何度もここのラワカに来ているが、今までタクシー代を請求されたことなどなかった。 「タクシー代? 何それ?」 「本部との往復のタクシー代のこと。前は外国人には言えなかったけど、今はちゃんと言えるようになったの」 タクシー代と言っているが、単なる言い訳だろう。ただ、ここで彼女がへそを曲げるとビザの更新ができなく
ミャンマーにはダランと言われている人たちがいる。ダランは普通の人たちと同じ姿で、ヤンゴンにもマンダレーにもどこの町にもいる。 ダランは今のミャンマーで一番嫌われ恐れられている存在だ。彼らは、住民の様子を軍に情報提供したり、軍に対して抵抗運動をしている人を密告したりいている。 ダランになった高校の女性教師ダランは今のミャンマー国民から最も忌み嫌われている存在で、一部のダランはPDF(People's Defence Force / 国民防衛隊)によって暗殺されている。最近、
7月から8月にかけて新型コロナウイルスに感染した経緯は以前のブログに書いた。私は既感染者なので再度感染する確率は低いのだが、複数回感染する人もいるという。日本だったらすぐにワクチンを打つことができるが、ここミャンマーでは簡単ではない。 ミャンマー国内のワクチン接種状況そもそも、ミャンマーでのワクチン接種率は低い。11月6日付けで2度の接種を済ました割合は約15%だ。 https://ourworldindata.org/covid-vaccinations?country=
マウンさんはヤンゴンの郊外で両親と娘という4人家族で元気に暮らしていた。そのマウンさんは、今年の3月に参加した反クーデターのデモで軍により射殺されてしまった。残された3人の家族はより郊外のほうへと引っ越した。私が彼らの家を訪ねたのはマウンさんの死から8ヶ月後の時だった。 マウンさんの母であるミャさんは黙ってスマホを私の前に置いた。そこには、頭が血まみれになり息絶えた息子、マウンさんの姿があった。 3月の中頃だった。ミャンマー中で軍に抗議するデモが続いていた。軍が実弾でデモ
先日、エアコンの清掃をした。ヤンゴンではエアコンの稼働率が高いので、1年に1度程度クリーニングや点検が必要だ。いつもの会社に電話すると3時間後にやってきた。 来たのは会社のオーナー社長と30代と思えるスタッフが一人だけだった。今までは20代前半の若者たちが5〜6人やってきて、元気よくさっさと仕事を済ましてさっさと帰っていく。ところが今回は社長と30代と思えるスタッフだけだったので、けっこう時間がかかった。 二人だけということに私は特に気にしていなかったが、クリーニングが終
ヤンゴンで新型コロナに感染したのはもう2ヶ月以上前の話になる。実は前回(7月16日)コロナについて記事を書いたすぐ後に自分が本当に感染してしまったのだ。 陽性だった最初に風邪っぽい症状が出たのは7月20日の夕方だった。熱っぽさとだるさを感じたが、時々ミャンマーでもかかる風邪の症状と似ていたので、いつものディコジン(ミャンマーで有名な風邪薬)を飲んで早めに寝床についた。もしかしてコロナ? という疑いも頭に浮かんだが、すぐに眠りに落ちてしまった。結局、ディコジンは全く効かず、翌
noteにミャンマーの新型コロナのことを書いたのは2週間ほど前だった。それから、日に日に悪化して大変な事態になってきた。私の周りでも多くの人たちが感染し、亡くなった方もいる。また、近所でも3人の方が亡くなった。 実際の数字は?保健スポーツ省が公式に発表している数字がこちらだ。 日付 検査数 感染者 死亡 7/11 10,117 3,461 82 7/12 14,432 9,014 89 7/13 11,686 4,047 109 7/14 21,352 7,083