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クーデターから1000日のミャンマー(その2)

2021年2月1日のミャンマー軍によるクーデター後、ミャンマー全土で大規模なデモや抗議活動が連日続いた。その先頭に立っていたのは10代から20代の若者たちで、ミャンマーではズィージェン(Z Gen / Z世代)と呼ばれている。この世代は今までのミャンマーに存在しなかった、まったく新しい世代だった。何十年にもわたる軍事独裁政権下で生きてきた親や祖父母の世代とは異なり、物心ついた頃には(限定的ながら)民主化された国であり、スマートフォンを駆使するデジタルネイティブとして、世界と繋がっていた。日本の同世代の若者と比べても、ほとんど変わらない。

武力闘争を選んだZ世代の若者たち


クーデター後、彼らは真っ先に先頭に立った。軍の恐ろしさを知る親たちはデモへ参加しないよう諭したが、若者たちは耳を貸さなかった。やがてデモは親世代や祖父母世代も巻き込む大規模なものへと発展した。デモの先頭に立つ若者に質問した。
「軍が銃を撃ってきたら?」
「逃げる。そしてまた戦う」

デモ開始当初、幼く頼りなげだった彼らの顔は、軍の実力行使が始まった2月下旬には皆、たくましい顔つきへと変わっていた。しかし、軍の徹底的な弾圧と虐殺に直面し、平和的なデモによる抵抗ではただ殺されるだけだと悟った。彼らは少数民族軍が支配する地域へ逃れ、戦いの技術を学ぶことを選択した。ミャンマーを自由で民主的な国にするために武力で軍を倒すこと、それが彼らにとって唯一の選択肢であった。軍に屈服し、自由のない世界で奴隷のように生きるという選択肢は彼らには存在しなかった。

この状況は1988年の8888民主化運動と同じであった。当時も大規模な抗議デモが軍による弾圧で鎮圧された。抗議デモを先導した若者たちは、少数民族が支配する地域へ逃れ、軍事訓練を受けて軍に対抗しようとした。しかし、その抵抗活動は徐々に衰え、軍は最終的に国を完全に掌握した。月日は流れ、当時の若者たちは現在の若者たちの親となっていた。

私は平和主義者ではないが、圧倒的な武力を持つ軍を武力で打ち負かすのは困難だと考えていた。軍は武力だけでなく、独裁を支える強力な権力構造と経済資源を有している。60年以上の独裁を続ける老獪な軍と武力で対峙することは、相手の得意とする領域で戦うことを意味する。88年の時と同様に、情け容赦ない弾圧により若者たちが殺され、鎮圧されることを当時の私は恐れた。

この頃、私はヤンゴンで軍の所業に恐れ、怒りに震える毎日を過ごしていた。毎日想像を絶する出来事が次々と起こっていた。拷問を受けた遺体は、歯がすべて抜かれ、顔の皮膚は薬品で溶けていた。なぜか内蔵が抜かれた遺体が遺族のもとに送られてきたことが何度もあった。デモ隊に向けて銃弾だけでなくロケット弾も発射され、若者たちは次々と倒れていった。足をロープでバイクに繋がれ、往来を引き回され死んでいった人もいた。こんな信じられないニュースが毎日何度も入ってきたのだ。私の周りでも、活動をやっていたわけではない友人がなぜか指名手配になり、タイ国境まで家族で逃げた。外国人にも容赦なく、日本人ジャーナリストも逮捕された。夜回りをする兵士たちは、理由もなく路上の自転車や車を破壊し、市場が兵士によって理由もなく放火され、燃えていった。こんな出来事が毎日毎日毎日毎日すぐ近くで起こっていた。善悪が逆転した不条理な世界が目の前に現れたのだ。ミャンマー国民にとって、私にとっても、軍は絶対に許せないおぞましい存在となった。

亡命政権(影の政府)としてのNUG


クーデターを起こした当初、軍は前政権を担っていた政党、NLD(National League for Democracy / 国民民主連盟)とアウンサンスーチーを押さえることで、ミャンマー全土を容易に掌握できると考えていた。これは、ロシア軍が当初ウクライナを容易に占領できると考えていたことと似ている。クーデターの直後、2月1日の早朝にアウンサンスーチーが拘束され、その後もNLDの党幹部や議員たちが次々と逮捕された。これを察知した一部のNLD関係者は、国境地域の少数民族支配地域や国外へ逃れた。彼らが中心となって設立したのがNUG(National Unity Government of Myanmar / 国民統一政府)である。

NUGは、ある種の亡命政権、影の政府とも言える。あるいは、ネット上に存在するバーチャル政府とも見なせる。NUGが設立されたのは2021年4月16日であるが、その頃の大混乱の中にいた私には、遠い世界の出来事のように感じ、亡命政権が樹立されたという現実感はなかった。それでも、NUGは国民の声を世界に届けることができる唯一の政治組織である。多くのミャンマー人が期待をしていた。

NUGが最初に手を付けたのは、ばらばらだったレジスタンス組織を統合することだった。多くの組織は徐々にPDFを名乗るようになった。PDFは、People's Defence Forceの略で、日本語では国民防衛隊(国民防衛軍)と呼ばれ、NUG傘下の武装組織だ。しかし、全ての組織がPDFと名乗っているわけではなく、NUGとは関係せず独自活動を選ぶ組織も一部存在する。また、PDFを名乗る組織でもNUGとの関係には強弱があった。PDFは、NUG傘下で同じ志を持つ組織の緩やかな連合体であると言える。

若者たちを受け入れた少数民族組織


ミャンマーには135の民族が存在しているとされている。この数字は疑問視されることが多いが、多民族国家であることは確かだ。ミャンマーにいる民族のうち、最大の民族はビルマ人で、人口の約70%を占める。また、仏教徒となると88%にもなる。

イギリスからの独立後、一部の少数民族が分離独立を求めて武装蜂起した。これに対し、軍は武力での徹底的な弾圧を試みた。しかし、これによって逆に他の多くの民族の蜂起を引き起こし、武力抵抗が拡大した。2011年の民政移管後も、少数民族との紛争は終息しなかった。ミャンマー軍と少数民族軍は75年間、絶えず戦闘を続けている。

2021年のクーデター後、カレン州のKNU(カレン民族同盟)とカチン州のKIA(カチン独立軍)は、いち早くクーデター反対の声明を発表した。この二つの有力な少数民族軍の元に多くの若者が逃げ込んだ。ここで軍事訓練を受けた若者たちは、その後、地元に戻り独自の抵抗組織を結成していった。もしミャンマーにこれらの少数民族組織がなかったら、若者たちは逃亡も抵抗もできず、クーデターは容易に成功していただろう。

こうしてみると、ミャンマーには二つの大きな対立軸が存在していると言える。一つは民主化に関する対立、もう一つは少数民族問題に関する対立である。これまで、これらの対立はほとんど関連がなかった。しかし、今回のクーデターを契機に、かつて交わることのなかった民主化問題と少数民族問題が交差し、互いに大きな影響を与えるようになった。

1988年以降、民主化についての対立というは、アウンサンスーチーが率いるNLDとミャンマー軍の対立であった。少数民族から見ると、NLDもミャンマー軍もビルマ人中心の組織であり、双方とも少数民族を軽視しているように映った。両者の対立というのは、ビルマ人同士の権力争いに見えていたのだ。

少数民族問題では、国家を支配するミャンマー軍に対して各民族軍は自らの権利を勝ち取ることを最優先としていた。ミャンマー軍との戦いでは、一時的な民族間の団結は見られたが、持続しなかった。そして、軍の民族分断作戦により個別に撃破されてしまった。こうした戦いに対して、ビルマ人(民族)の多くは少数民族には同情せず、逆にミャンマー軍を支持する人が多かった。

このような民主化問題と民族問題を巡る閉塞状況は、クーデターによって根底から覆された。ビルマ人の少数民族に対する意識が大きく変わり、今までの過ちを認めるまでになった。Facebook上では少数民族への謝罪コメントが溢れていた。これは民族問題に留まらず、イスラム教やキリスト教に対する考え方にも影響を及ぼした。中には、仏教徒であることを恥じるビルマ人も現れた。これは私にとって衝撃の出来事だった。クーデター前であれば、仏教徒ビルマ人が仏教を卑下するような発言をすることなど絶対にありえないことであった。

民族軍も、これまでは自らの民族の権利の獲得のために戦ってきたが、クーデター後はミャンマーを民主的な真の連邦国家にするために団結するという大義を掲げるようになった。もちろん、全ての民族軍が同じだとは言わない。一部にはミャンマー軍に協力する民族軍もいれば、UWSA(ワ州連合軍)のように中立を保ち動かない民族軍も存在する。それでも、これほど多くの民族軍が協力するのは、ミャンマーの歴史上前例のないことである。

ミャンマーの歴史を振り返る


ここで、ミャンマーの歴史を簡単に振り返ってみる。日本との関係、軍がどのように絶対的権力を獲得したか、軍と少数民族との関係などが歴史から浮かび上がる。

日本との絆

戦前にさかのぼる。日本では英領ビルマと呼ばれたこの国で、独立を目指す様々な組織が存在していた。その中の一つが通称「タキン」(正式名称は、ドウパマー ・ アシー ・ アヨウン)と呼ばれる民族主義的な若者たちが集まったグループだ。ちなみに、「タキン」とは「主人」という意味で、「我らビルマ人こそ主人であり、イギリス人が主人なのではない」という意思表明だ。そんな彼らに注目したのが日本軍だった。

日中戦争が泥沼化する中、中国国民党軍への補給ルートの遮断を目指した日本軍は、タキンの若者たちと接触した。極秘に日本に渡った若者たちは、日本軍の全面支援の下で軍事訓練を受けた。後に「30人の志士」と呼ばれるようになる彼らは、太平洋戦争の開始と同時に日本軍と共にビルマに戻り、イギリス軍を駆逐した。こうして生まれたのがビルマ独立義勇軍(BIA)で、現在のミャンマー軍の起源である。

似た話をどこかで聞いたことがないだろうか。そう、当時のタキンの若者たちと現在のPDFの若者たちが完全に重なる。タキンの若者たちが創設したBIAは、後にビルマ軍、そしてミャンマー軍へとなり、同時に独裁者へと変貌した。そして今、彼らは現代の若者たちから挑戦を受ける立場になっている。これは歴史の皮肉とも言えるだろう。

タキン・BIAのリーダーだったのがアウンサンで、アウンサンスーチーの父でもある。戦時中はバモー首相の下、形式的にはビルマは独立政府となったが、実際は日本軍の支配下に置かれた。また、日本の敗色が濃くなった1945年3月、ビルマ独立義勇軍は日本軍に反旗を翻した。このまま日本側についていると終戦後に自国が敗戦国となり、真の独立が困難になるという判断だった。

戦後、ビルマは再びイギリスの植民地となったが、アウンサンはイギリスとの外交交渉を通じて独立を勝ち取った。しかし、彼は独立前に政敵によって暗殺された。アウンサンはビルマ人にとって英雄となり、「ビルマ独立の父」と称されるようになった。

ビルマ独立義勇軍は形を変え、現在のミャンマー軍へと繋がっていった。旧日本軍がミャンマー軍の創設者とも言える。また、戦時中に現地のビルマ人に助けられた日本の将兵も多かった。このような歴史的背景があり、日本の一部の政治家はビルマ軍(ミャンマー軍)に対して特別な感情を持っていた(持っている)。これが戦後日本外交における、日本とミャンマー軍との「特別な関係」の基礎となった。

1990年代にミャンマーを訪れた際のことを思い出す。テレビから突然「軍艦マーチ」が流れ始めた。画面には、ミャンマー軍の訓練風景を撮影した軍のプロモーション映像が映っていた。それを見て、日本人である私の胸の中が少しざわついた。ミャンマー軍では日本の軍歌が正式採用されていたのだ。

1962年のクーデターにより軍の独裁が始まる

1948年に独立したビルマは、当初は民主主義の国であり、フィリピンと並んで東南アジアで最も豊かな国の一つとされていた。バンコクの日本人駐在員がラングーン(ヤンゴン)まで買い出しに行くほどであった。

ビルマは経済的に豊かであったが、国内政治は危機に直面していた。少数民族の反乱が国内を揺るがしていたのだ。そして1962年、当時軍のトップであったネウィンがクーデターを起こした。彼はタキンのナンバーツーで、アウンサンと同じく日本で軍事訓練を受けた「30人の志士」の一人だ。ネウィンは民主主義を信じていなかったし、政党政治を侮蔑していた。政党政治は党利党略に走り、国のための政治を行っているとは言えない。ビルマ分裂の危機を防ぎ国家を守ることができるのは軍だけだと信じていた。

タキンの若者たちはイギリスを追い出し、ビルマ人が国の主人となった。1962年にはタキンのナンバーツーだったネウィンが民主主義を追い出して軍が国の主人となってしまった。

ネウィンが権力を握った後に始めたのは、「仏教思想に基づいた社会主義」という奇妙な国造りである。ネウィン政権では、当時のソ連主導の社会主義に疑問を持ち、ビルマ独自の社会主義を行おうとしたのだ。ただ、具体的にそれがどういう社会主義かを明らかにすることはなく、マルクス思想に仏教思想をふりかけような抽象的なものであった。

また、外交では孤立主義を選択し、鎖国政策を進めた。当時、ベトナムなどインドシナ半島が米ソの代理戦争に巻き込まれていたという理由もある。経済的には、民間企業を次々と接収して国有化した。こうした政策を続けた結果、ビルマは東南アジアで最も豊かな国から25年後には最も貧しい国の一つに転落した。

経時的に困窮したネウィン独裁政権のビルマに手を差し伸べたのは日本だった。日本はビルマへの経済援助国として突出した存在で、特に有名だったのは、通称「4プロ」と呼ばれる「工業化4プロジェクト」だった。このODAは4,030億円もの規模に達し、東洋工業(現・マツダ)、日野自動車、松下電器産業(現・パナソニック)、久保田鉄工(現・クボタ)の4社がビルマで現地生産を行った。プロジェクトはビルマの工業化を目指したものだったが、失敗に終わった。そもそも、鎖国政策を続ける社会主義国へこのような援助を行うこと自体が不思議なことであった。これも、日本とミャンマーとの「特別な関係」があったからだろう。

ネウィン政権が推進したもう一つの政策は「ビルマ化」であった。この政策では、植民地時代の西欧的要素を排除し、ビルマに住む外国人を追放することになった。イギリス人だけでなく、インド人や中国人も国外追放される事態になった。また、ネウィン政権の定義するビルマという概念にはビルマに住む様々な民族は含まれず、ビルマ人(民族)だけが入っていた。少数民族からすると、植民地時代よりも自由が失われ、弾圧される立場になってしまった。

軍が長年にわたって掲げてきたスローガンは、「国の統一・安定・主権」である。これを実現できるのは軍だけだと軍は自負している。軍は反対勢力に対して、強権的な力を用いて恐怖を与え、屈服させようとしてきた。1962年から60年以上、軍はこの戦略を維持し続けている。その結果、皮肉にも、ミャンマーは東南アジアで最も国の統一や安定を失った国の一つとなってしまった。

もうひとつ、付け加えなければいけない問題がある。中国問題だ。ネウィン時代、少数民族軍よリも脅威だったのがビルマ共産党(BCP / CPB)だった。ビルマ共産党は中国共産党の強力な支援によりビルマ各地で反乱を起こした。また、ビルマ共産党の前は中国国民党の残党がビルマ国内で暴れ回っていた。より昔の王朝時代には、幾度となく中国側から侵略されたり圧力を受けてきた。ビルマ軍(ミャンマー軍)にとって、中国は常に巨大な脅威であり、決して気の許せる相手ではない。かといって、圧倒的な国力の差がある中国に対して虎の尾を踏むようなことはできない。こうした思いは、ミャンマー軍のDNAに深く刻まれている。

【参考資料】
日本の対ミャンマー(旧ビルマ) 経済協力と工業化4プロジェクト
https://www.senshu-u.ac.jp/albums/abm.php?d=1599&f=abm00001976.pdf&n=vol11_no1_51-60%E5%B0%8F%E6%9E%97%E5%AE%88.pdf

1988年の8888民主化運動

1987年、かつて東南アジアで最も豊かであったビルマは、国連により最貧国に認定された。同年、突然の廃貨が実施され、使用中の複数の紙幣が突如無価値となり、国民の不満は爆発寸前となった。

翌1988年、小さな事件がきっかけで民主化を求める大規模デモが発生した。これが8888民主化運動である。軍はデモ隊に対し銃を使用した。数千人が犠牲になったとされるが、正確な犠牲者数は未だに明らかにされていない。この時、母親の看病でたまたまイギリスから一時帰国していたアウンサンスーチーが国民の前に現れた。彼女は「独立の父」の娘であり、瞬く間に民主化のシンボルに担ぎ上げられた。民主化を目指す政党、国民民主連盟(NLD)の設立もこの時であった。

軍はこの民主化運動を武力で鎮圧した後、1990年に選挙を行うと国民に約束した。選挙の結果、アウンサンスーチー率いるNLDが圧勝したが、軍は「議会よりも憲法を制定するのが先だ」とし、自らが行った選挙結果を無視して独裁を継続した。この時期に、1962年から続いた社会主義政策は放棄され、市場経済に移行した。また、国名の英語表記が「Burma」から「Myanmar」に変更され、日本ではビルマからミャンマーと呼ばれるようになった。

ネウィン時代のビルマでは、軍が絶対的な権力を持っていたと言えるが、国家は経済的に破綻しており、軍も経済的に豊かではなかった。しかし、88民主化運動以後、社会主義から市場経済への移行により、軍は経済的な力をも持つようになった。ただし、これは通常の市場経済ではなく、軍を中心とした縁故資本主義であり、社会には腐敗が蔓延した。軍と利権で結びついた資本家はクローニーと呼ばれ、彼らの力も急速に増した。

独自の銀行、テレビ局、携帯電話キャリア、保険会社、ビール会社、病院、その他多くの企業を持った軍は、国家内国家とも言える存在であり、アンタッチャブルな存在となった。「我らビルマ人こそ主人」というスローガンで英国と戦ったタキン・ビルマ独立軍が、70年後にこのような存在になるとは、誰が想像しただろうか。

民政移管

市場経済化に移行したミャンマーはある程度の経済成長をしたが、欧米諸国による軍事政権への経済制裁の影響で、本格的な海外投資や海外援助はなかった。タイなどの周辺国が経済発展を遂げるのを、ミャンマーは眺めるだけであった。この状況を変えようと、軍事政権は軍主導で民主化ロードマップを策定し、2008年に新憲法を公布した。議席の1/4を軍が占め、国防省・内務省・国境省を軍の支配下に置くなど、軍に非常に有利な内容であったが、この憲法の下で2010年に選挙が実施された。

アウンサンスーチーが率いるNLDは、この憲法の下では自由で平等な選挙が不可能であると考え、選挙参加を拒否した。その結果、軍の傀儡政党であるUSDP(Union Solidarity and Development Party / 連邦団結発展党)が勝利を収めることになった。

大統領には、軍事政権時代に首相を務めた元将軍のテインセインが任命された。この政権は民主主義の体をなしていたが、実質は軍の傀儡政権で軍事政権時代から何も変わらないだろうと多くが見ていた。しかし、テインセインは次々と改革を実施した。経済の開放と自由化、メディアの自由化、検閲の廃止、通信の自由化、金融の自由化、中国による巨大ダム工事の凍結など、誰も予想していなかった政策を次々と進めた。かつての軍事独裁国家だったミャンマーは、条件付きながら民主的国家へと変貌を遂げた。この時期、日本でもミャンマーブームが起き、「ラスト・フロンティア」などと称された。

アウンサンスーチーとNLD政権

次の2015年選挙ではNLDも参加した。軍主導の民主化に自信を深めていた軍は、この選挙でも勝利すると思っていたようだ。しかし、アウンサンスーチーの人気はそれを上回り、NLDが圧勝を収めた。この際にもクーデターの噂が流れたが、テインセイン大統領は敗北を認め、NLDが次の5年間の政権を担うことが決まった。

2008年憲法により「外国人の家族がいる者は大統領になれない」と規定されていたため、アウンサンスーチーには大統領の資格がなかった。このため、NLDは「国家顧問」の役職を新設し、彼女が就任した。彼女は軍に有利である2008年憲法の改正を試みたが、憲法の制約と軍の反対により断念するしかなかった。また、行政の効率化と賄賂の撲滅を目指したが、軍や行政組織内部の抵抗により、若干の進展しなかった。彼女に対する期待が大きすぎたためか、少数民族や経済界の一部からNLDに否定的な意見が出始めた。ただ、国民は自由と民主主義を享受し、若者たちは自らの未来が広がることを感じていた。この時期のミャンマー人は、一様に未来を信じて表情が明るかった。

2020年の選挙では、一部でNLDが敗北するのではという予想があったが、結果的にNLDは再び圧勝した。この選挙結果が、翌年2021年のクーデターへとつながることに、この時は多くの人は気づいていなかった。

ロヒンギャ危機で世界から非難

ここで、NLD政権下での少数民族問題を取り上げないといけない。ミャンマーの政治で最も大きな問題のひとつ、少数民族問題はNLD政権でも解決しなかった。それどころか、悪化してしまった。特にロヒンギャ危機ではアウンサンスーチーが世界中から非難されることとなった。軍が制定した2008年憲法では、軍事と治安については軍が全て独自に決定できるというシステムで、大統領も国会も誰も軍をコントロールできなかった。そこに起きたのがロヒンギャ危機だった。

2017年にラカイン州でロヒンギャ武装勢力ARSAによる警察署への襲撃が発端だった。軍はロヒンギャに対して「浄化作戦」を開始し、70万人以上のロヒンギャ人を隣国のバングラデシュに追い出すこととなった。その過程で、1万人以上のロヒンギャ人が殺害され、数百の村が焼き尽くされたと言われる。ミャンマーは国際社会から非難を浴びたが、アウンサンスーチーやNLDは軍を弁護する側に回った。彼女のロヒンギャに対する本心はどこにあったのか分からないが、憲法上、彼女には軍の行動を止める権力がなかった。

彼女が軍の行動を止められなかったのは、憲法の問題だけではなかった。国民の多くが、特にビルマ人(民族)のほとんどがこの問題では軍を支持していたからだ。ロヒンギャはバングラデシュからの不法移民なので追い出して当然であると信じていたのだ。クーデター前に私は数十人のミャンマー人にロヒンギャのことを尋ねたことがあるが、ロヒンギャをミャンマー人として認めた人はたった一人だった。その彼はキリスト教徒で少数民族のチン人だ。また、「ロヒンギャ人などのイスラム教徒は、ミャンマーを侵略して仏教の国からイスラムの国に変えようとしている」という陰謀論を信じている人たちもいた。ちなみに、この陰謀論を流布したのは軍である。

元々、ロヒンギャ人は少数だが王朝時代からミャンマー側に住んでいたし、ミャンマー側の仏教徒ラカイン人も同じように昔からバングラデシュ側に少数派として住んでいた。王朝時代には仏教徒もイスラム教徒も共存していたのだ。ミャンマー側のラカイン王朝の王はイスラムの名前も持っていたくらいだ。王朝時代は他のアジア諸国と同じように、国も民族も曖昧でぼんやりしたもので、民族は混在して生活していた。そして、国境が確定したのは英国植民地になってからだ。

たしかに、軍が言うように英国植民地時代に大量のムスリムがインドから移住してきたのは事実だし、地元の仏教徒ラカイン人と軋轢が生じたのは植民地時代に入ってからである。しかし、その軋轢を利用して陰謀論まで流してナショナリズムを煽ったのがミャンマー軍だ。

60年に及ぶ軍の独裁期間は、国民に虚偽の歴史を教え、イスラム教を敵視させるのに十分であった。表現の自由が制限されたミャンマーでは、言論界も反イスラム、反ロヒンギャの言説ばかりになった。その結果、ほとんどの国民が軍により洗脳されてしまったと言える。

もう一つの問題はFacebookの利用である。2017年にロヒンギャ危機が発生した際、すでに多くのミャンマー人がスマートフォンを所持し、Facebookを利用していた。Facebookを含むSNSでは異論が排除され、同じ考えを持つ人々が集まりやすい傾向にある。当時、Facebookではロヒンギャに関するフェイクニュースが溢れていたが、Facebook社にはそれをチェックする意志がなかった。この結果、Facebookはエコーチェンバーとなり、ビルマ人の間でより過激な反ロヒンギャの流れが生まれた。こうした状況を見て、ロヒンギャ問題は100年経っても解決しないと、当時の私は考えていた。

しかし、2021年のクーデター後、Facebookのコメントでロヒンギャ人へ謝罪するビルマ人が続出しているのを目にして私は驚いた。いや、驚愕した。クーデターから2年以上経つ現在では、多くのビルマ人、ミャンマー人がロヒンギャ人をミャンマー人として認めるようになったと感じている。

さらに、ロヒンギャ人だけでなく、他の民族に対しても意識が根本的に変わってきた。半世紀以上にわたる民族間の対立の原因が軍の洗脳にあったのだと気がついてきたのだ。そして、洗脳が溶けるきっかけになったのが、軍が自ら起こしたクーデターだったというのは、軍にとって皮肉なことだ。

NUGによる宣戦布告(2021年9月7日〜)


ミャンマーの戦前の歴史を駆け足で振り返ったが、ここで2021年のクーデターに話を戻す。

2021年7月頃から、ヤンゴンの街の様相は変化し始めた。毎日のようにヤンゴンのどこかで爆弾事件が発生していた。これは、少数民族軍のキャンプで訓練を終えた若者たちがヤンゴンに戻り始めたことによるものである。私が住む地区でも、近くで爆弾騒ぎが起きたことがある。軍による弾圧は厳しさを増し、多くの若者が逮捕された。近くのビルでは、軍の逮捕から逃れようと上階から道路に身を投じた医療ボランティアの医師とその仲間がいた。軍はPDFだけでなく、ボランティア活動をする人たちも容赦なく逮捕していた。

ダウンタウンを歩くと、長らく閉まっていた店の一部が再開していたが、人々の表情は硬く、余計な会話をする者はいなかった。警察署の前に来ると、正面は鉄条網で囲まれ、奥には土嚢に隠れた兵士が銃を構えていた。間違って撃たれる危険もあったため、そういった場所は遠回りしても近づかないようにしていた。

タクシーに乗っても、運転手は無口であった。以前はおしゃべり好きだったヤンゴンのタクシー運転手も、見知らぬ客には口を閉ざしていた。客が軍側の人間である可能性があるため、余計な発言は逮捕につながる恐れがあったからだ。

この時期によく起こっていたのは、身代金目的の拉致だった。兵士が関係のない住民を捕まえ、家族から身代金を要求するというものだ。実際に私の友人が経験したことだが、彼の顔見知りのコンヤ(噛みタバコ)売りが単にコンヤを売っているだけで捕まり、家族には20万チャットの支払いを要求された。コンヤ売りの家族にはそのような大金はなかったため、友人が20万チャット(当時のレート15,000円)を援助して、無事釈放された。クーデター後、軍人は何をしても罰せられないという状況で、兵士による強盗や身代金誘拐が頻繁に起きていた。

そして、2021年9月7日が訪れた。ネット上には「宣戦布告(D-Day)」という言葉が溢れた。NUGが宣言したのである。ミャンマー各地で既に毎日戦闘が起きていたが、この宣言は、ミャンマーが後戻りできない状況に至ったことの象徴であった。

地方での反乱


地方では全く異なる状況が展開されていた。チン州やカヤー州などの少数民族地域では、少数民族軍とPDFが共同作戦を行い、軍との戦闘が激化していた。しかし、驚きを持って注目されたのはザガイン地方である。

ザガイン地方は、ミャンマー中央部から北部に位置し、ビルマ人が農業を営む平原が広がっている。これまでビルマ人が多数を占める地域では、軍に対する反乱は起こらなかった。しかし、今回はザガインのいたる所で反乱が発生した。

ミャンマー各地で武力闘争が急速に拡大していたが、PDFの多くは武器が不足していた。長期にわたる戦いを続けてきたKNUやKIAなどの少数民族軍は必要な武器を保有していたが、少数民族軍のいない地域では、元々銃などの武器はなかった。山岳民族が猟銃を所持している程度で、鉄パイプで作った簡易銃や遠隔操作が可能な自作の即席爆発装置(IED)で戦うしかなかった。その後、少数民族軍からの支援や軍の武器奪取により、武器が徐々に増えていった。

貧弱な武器だけでミャンマー軍に対抗することは困難だと当初は思われていたが、即席爆発装置は大きな戦果を上げた。軍部隊を待ち伏せし、多くの軍の車両を破壊することができたのだ。また、ゲリラ戦法で軍の前哨基地を攻撃して武器を奪っていった。こうして、ザガインのPDFは農村部での支配を拡大した。

軍がこのような状況に陥った原因の一つは、兵士の士気の低さであった。これまで一部の少数民族の反乱を鎮圧するために戦っていたが、今回はほぼ全ての国民が敵となっていた。そのため、戦う目的に疑問を抱いた兵士もかなりいた。

さらに、軍の弱体化の大きな理由は、ミャンマー軍の兵員数が一般的に言われているよりもずっと少なかったことにあった。ミャンマー軍は秘密主義で知られ、兵員数は公表されていないが、一般的には約40万人とされていた。しかし、様々なデータから推測すると、実際の兵員数は約7万人という驚くべき数字であった。警察や国境警備隊を合わせても、総数は約15万人である。日本の自衛隊の兵員数が24万人だが、ミャンマーの国土は日本の1.8倍だ。東南アジア有数の軍事力を持っていると言われていたミャンマー軍は実は張子の虎だったのだ。

このため、部隊は主に都市や主要な町にしか配置されず、多くの小さな村には兵士も警察も存在しなかった。この状況で、地方の村々では地元住民とPDFによる自治が次々に始まった。軍がこれらの村へ兵士を送っても、途中の待ち伏せ攻撃により敗退することも多く、ザガインの平原に広がる村々の平定は困難となった。

【参考資料】
Myanmar’s Military Is Smaller Than Commonly Thought — and Shrinking Fast
https://www.usip.org/publications/2023/05/myanmars-military-smaller-commonly-thought-and-shrinking-fast

ピューソーティーとダラン(2021年7月〜)


地方での戦いが激化する中、2021年7月頃からピューソーティーという名の民兵組織の存在が知られるようになった。これは軍から支援された地元の民兵で、現役軍人、退役軍人、軍傘下の政党USDPの党員、過激派仏教僧侶、軍を支持する住民などが所属していた。彼らは軍から武器と資金を提供され、PDFや一般住民への攻撃を担っていた。

ピューソーティーという名前は、11世紀パガン王朝時代のミャンマーの神話に登場する英雄に由来している。この英雄は巨大な怪鳥を退治し村人を救ったとされ、ビルマ人には広く知られている。日本人からすると、ヤマタノオロチを退治したスサノオノミコトのような存在だ。この名前を使用したのは、ビルマ人のナショナリズムを煽る意図があったのだろう。

ピューソーティーは軍の支配下にありながら自律的に行動し、周辺住民を襲い略奪するなどしたが、何をやっても罰せられることはなかった。軍や警察は、この民兵組織を意図的に治安を乱すことに利用していた。住民にとって、ピューソーティーは殺人や略奪を行う盗賊と同等であった。

一方、都市部では「ダラン」という言葉が囁かれ始めた。ダランは「密告者」という意味で、PDFなどレジスタンス活動をする人たちの情報を軍や警察に密告する者たちを指す。高校で教えるある女性教師が自分の教え子の情報を軍に提供し、多数の生徒が逮捕された例がある。その教師は軍将校の妻で、その後PDFにより暗殺された。

ダランはレジスタンス活動者だけでなく、個人的な恨みだけで虚偽の密告をする者もいた。軍や警察はこれを十分に調べずに拷問や刑務所送りにすることが多かった。

私の知人もダランの虚偽の密告により逮捕され、5年の懲役刑を受けた。彼女は政治活動を行っていなかったが、彼女を妬む人物により虚偽の密告が行われた。逮捕時、兵士たちは彼女の家から大量の保存食を奪い、敷地内の小屋に火をつけた。

ダランに関連する悲劇はこれだけに留まらず、誤ってPDFによって殺害されたケースもあった。このように密告に関わる悲劇が続き、住民たちは疑心暗鬼になり始めた。

Facebookを巡る密告も頻繁に発生していた。私の知り合いに若い男性がいるが、彼の恋人はFacebookで軍に反対する投稿に「いいね!」したことで懲役5年の判決を受けた。スマホを1回タップしただけで5年も刑務所に入ることになったのだ。このような状況から、多くのミャンマー人は本来のアカウントを凍結し、偽名を使ったアカウントを使い始めた。私自身もFacebookでは別アカウントを使用し、投稿は一切行わないようにしている。

国民の意識


ここで、ミャンマー人が軍のクーデターに対してどのように思っているかについて書いてみたい。私の周囲の人たちはの多くは、現在の軍は解体し、全く新しい国家を築くべきだと考えている。しかし、本心を語らない人や軍に同調する人も少数存在している。ミャンマーにおいて民意を数字で表すことは極めて困難であるが、一つの指標となる調査があった。

第1回ミャンマー世論調査グラフデータ全公開【ミャンマー世論調査機構(MOPR)】
https://note.com/tomoyaan/n/n9384da21828a

このネット上で行われた世論調査は、ミャンマーにおけるこれまでにない試みである。この調査はFacebook上で募集されたものであり、インターネットにアクセスできない地域の人々やFacebookを使用しない人々は対象外であることを理解しておく必要がある。なお、調査期間は2022年11月11日から2023年1月11日となっている。

2021年2月1日以降の軍評議会による統治に関する意見(3790名回答)
・正当だと思い支持している 5.1%
・正当だと思わないが支持している 3.9%
・不当で受け入れられない 86.6%
・不当だが受け入れている 4.5%

第1回ミャンマー世論調査グラフデータ全公開

この回答は、私の直感とも一致している。86.6%の人々が軍を積極的に否定している。軍を支持する人が9%程度いることは、軍と繋がることで利益を得ている人が一定数いることを反映している。

「不当だが受け入れている」と答えたのがたったの4.5%だったというのは驚きだ。1962年から続いた軍の独裁により、軍の支配を現実として受け入れ、抵抗を無駄だと考える国民が以前はかなりいた。今回のクーデターとその後の抵抗は、これまで諦めていた人々を目覚めさせたのだろう。

次に、民族対する意識についての回答も興味深い。

2021年2月1日以降、あなた自身のミャンマー国内の民族に対する意識の変化があれば、 教えてください。(3634名回答)
・連帯意識が強くなった 53.4%
・やや連帯意識が強くなった 28.4%
・意識の変化はない 10.7%
・やや他民族への不信感が強くなった 2%
・他民族への不信感が強くなった 1.3%
・わからない 4.1%

第1回ミャンマー世論調査グラフデータ全公開

多民族国家であるミャンマーにおいて、民族問題は最も大きな課題であった。軍は民族対立を煽ることで自身の存在理由を主張してきた。しかし、クーデター後は民族間の連帯意識が強まっていることがこの調査からも明らかになった。

ロヒンギャに関する回答が衝撃的だ。

「1982年の国籍法を無効にし、ロヒンギャを法の下に平等にする」というNUGの方針について、どう思いますか。(3626名回答)
・支持する 62.7%
・支持しない 15.1%
・どちらともいえない 22.2%

第1回ミャンマー世論調査グラフデータ全公開

この結果は、クーデター前と比較して驚くべき変化を示している。6割以上のミャンマー人がロヒンギャをミャンマー人として認めるようになった。クーデター前の数字がないので何とも言えないが、私の肌感覚だとロヒンギャを認めていたのは数パーセント、それもかなり小さな数字だったと思っている。「6割を超えるミャンマー人がロヒンギャを認めるようになる」と当時言っても、誰も信じてくれなかっただろう。

いずれにせよ、軍がクーデターを起こしたことにより、ミャンマーで解決不可能と思われていたロヒンギャ問題も解決の見込みが生まれた。

ミャンマー軍がアノーヤター作戦を開始(2021年10月〜)


ミャンマーは独立直後から軍と少数民族の戦いが絶えず、軍は少数民族にたして「四断作戦」(Four Cut Operation)を採用してきた。これは、地元住民から民族軍への食糧、資金、情報、兵士の提供を断つことを目的としている。民族軍への支援を止めるために、地元住民に対する厳しい取り締まりが行われ、疑わしい住民を殺害したり、村を破壊することが数多くあった。しかし、このような行動はミャンマー軍に対する憎悪を増幅させ、民族軍への支援がなくなることはなかった。冷静に見れば、この作戦は誤っていたと言えるが、軍はこの方法を取り続けた。

2021年のクーデターでは、ミャンマー軍は少数民族だけでなく、ビルマ人までも攻撃の対象に拡大した。全国民が攻撃対象となったのである。軍が取った作戦は、「アノーヤター作戦」(Operation Anawrahta)と呼ばれた。アノーヤターとは、11世紀にミャンマーで初めての統一王朝を築いた王の名前である。

2021年10月のチン州タンタラン(Thantlang)への空と陸からの攻撃は、この作戦の象徴的な出来事である。山の上に位置する美しい町タンタランが炎に包まれた写真は、衝撃的な映像だった。軍は戦後の復興などは一切考えず、略奪と殺害を行いながら村々を焼き払った。戦闘員ではない一般住民も攻撃の対象となり、金品を奪われ、殺されていった。

これを見ると、2017年にラカイン州でロヒンギャ人に対して行われた「浄化作戦」を思い起こさせる。70万人以上のロヒンギャ人が隣国バングラデシュへと逃れた。ミャンマー軍は、ロヒンギャ人はバングラデシュからの不法移民とみなしていたので浄化作戦を行ったと言われている。そして、アノーヤター作戦でも同じように村々を焼き尽くしていった。軍はミャンマー国民をも同胞とは見ていないのであろう。

ミャンマー軍が村を攻撃すると、略奪も同時に起きていた。ミャンマー軍内では、将校クラスになると賄賂やその他の経済的利益を得ることができる。上級将校になれば、家も無償で提供される。しかし、一般兵士にはそのような恩恵はほとんどなく、戦場での略奪が主な収入源になっていた。ミャンマー軍はやりたい放題だった。

しかし、軍はPDFや少数民族軍による待ち伏せ攻撃により大きな損害を受け、地上での銃撃戦でも軍は劣勢であった。そこで、空軍の支援による作戦を採用した。PDFや少数民族軍は空からの攻撃には対抗手段がなく、逃げるしかなかった。

空襲は脅威であったが、決定的ではなかった。空軍の攻撃は短時間に限られ、PDFや住民は避難することができた。空爆後に陸軍が村を掃討するも、軍がその後ずっと村に駐留するわけではないため、住民は焼け残った村に戻ることができた。しかし、激しい攻撃や村全体の焼失により、村を放棄して難民とならざるを得ない人たちも数多くいた。

軍は村々を転戦して消耗していった。国民のほとんどが敵で、休まる場所も時もなく、新規入隊する者もいなかったためだ。主要な町は制圧したものの、周辺の村々は軍に屈住抵抗する住民ばかリであった。これは日中戦争時の日本軍が行った「点と線の支配」と同じ状況である。主要な町と鉄道・幹線道路を支配したものの、広大な面では抵抗勢力に囲まれていたのだ。ミャンマー軍も同じような状況に陥っていた。

【参考資料】
Myanmar military prepares an onslaught for the ages
https://asiatimes.com/2021/10/myanmar-military-prepares-an-onslaught-for-the-ages/ 

PDFのドローン部隊と武器の高度化(2022年3月〜)


クーデターから1年経った。当初、海外のミャンマー専門家や外国政府の外交担当者は、レジスタンス側が軍に武力で戦うということが無謀であると考えていた。東南アジアの中でも屈指の兵力を持ち、60年近く国家権力を掌握していたミャンマー軍が崩壊するなど、議論の俎上に上がることもなかった。しかし、1年経った後も若者たちと少数民族軍の武力抵抗は続いていたし、より一層彼らの力が強くなってきていた。

しかし、PDFの若者たちは常に武器不足に悩まされていた。彼らは軍との衝突で勝利を収めると、まず第一に相手の武器を確保する行動に出た。Facebook上では、捕獲した武器を展示し、戦果を誇示するのが一般的だった。

そうした中で、フェデラル・ウィングスと名付けられたドローン部隊の誕生は驚きであった。当初、彼らは中国製の市販ドローンを改造して使用していたが、1年後には3Dプリンタを利用してオリジナルの固定翼ドローンを開発した。このドローンは軍にとって大きな脅威となり、兵士たちは常に上空に警戒を怠らなくなった。軍はドローンを妨害するジャマーを部隊に配備したが、若者たちはジャマーの周波数を解析し、妨害を回避する方法を見つけた。

また、彼らが自作する兵器の高度化も進んだ。当初は簡易的な銃に限られていたが、やがてはサブマシンガンや迫撃砲のロケット弾までもが製造されるようになった。PDFの若者たちの中には、もともと優秀な大学生やエンジニアが多数いた。彼らはインターネットを駆使し、自らの技術と努力で軍に立ち向かっていった。

【参考資料】
Myanmar Resistance Groups Get Creative to Manufacture Weapons
https://www.irrawaddy.com/news/burma/myanmar-resistance-groups-get-creative-to-manufacture-weapons.html

Myanmar’s resistance ‘air force’ flies high in fight against regime
https://myanmar-now.org/en/news/myanmars-resistance-air-force-flies-high-in-fight-against-regime

The Rebel Drone Maker of Myanmar
https://www.wired.com/story/the-rebel-drone-maker-of-myanmar/


クーデターから1000日のミャンマー

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