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チン州の町にミャンマー軍が攻めてきた

まだ雨季の頃だった。チン州の山から知り合いの男性がヤンゴンにやってきた。彼と知り合ったのはもう20年ほど前になる。ここではルィンさんという仮名にしておく。

2021年2月1日に起きたクーデターの後、ミャンマー中で大規模なデモが発生した。1988年のいわゆる「88民主化運動」のときも大きなデモが起き、軍は数千人(正確な人数は未だに不明)の一般国民を殺害した。88年の抵抗運動は、ヤンゴンなどの大都市が中心で地方は比較的静かだったが、今回はミャンマー全土と言えるほどデモなどの抵抗運動が広がった。インド国境のすぐ近くの山村に住む知り合いに電話をかけてみると、彼もデモに毎日参加していた。

軍がやってきた

ルィンさんが住む町はチン州の山の中にある。ミャンマーの北西部にあるチン州はインドに接し、2,000m級の山が連なる。ここにはチン人(族)と呼ばれる独自の文化を持つ人たちが住み、日本とも無縁ではない。第二次世界大戦時にインパール作戦(白骨街道とも言われる無謀な作戦だった)で、日本軍の一部がこの地を通ってインドへと進軍したのだ。

チン州でもクーデターに対する抗議デモが連日起きていた。住民の抗議運動を地元の警察は抑えることができず、軍は兵士を送ることを決定した。その頃、ミャンマー全土で起きていたデモに対して軍は強硬な実力行使を始めていた。武器を持っていないデモ隊に対して軍は自動小銃だけでなくマシンガンやロケット砲で攻撃し、当時既に200名以上の死者が出ていた。ヤンゴンの北にあるバゴーという町では、軍の攻撃により80名以上の若者たちが一度に殺されるという事件も起きていた。軍がチン州の町に兵士を送ったというニュースを目にしたとき、大勢のチンの人たちが殺されると私は思った。しかし、その日偶然現場近くにいたルィンさんは驚きの光景を目にすることになる。

町に侵攻してきたのは数十人の兵士だった。山腹にへばりつくように町へ続く道を数台の軍用車が走ってきた。軍が来ることを町の人たちは事前に知っていた。猟銃を手にした大勢の男たちが車道の上の森の中に隠れたいた。彼らの真下に車列がやってきた瞬間、一斉に猟銃が火を吹いた。これには軍もひとたまりもなかった。崖下に落ちる車、放火されて火だるまになった車、兵士は死ぬか逃げるしかなかった。まるで映画のワンシーンのようだったと、ルィンさんは語った。

軍が派遣した最初の部隊は一瞬で壊滅してしまった。次に軍は兵力を増強して再度やってきたが、それもまた同じように撃退されてしまった。軍はようやく現実を理解した。三度目は空からやってきた。ヘリコプターに兵士だけでなく重火器も積んできた。迫撃砲などの重火器が町に向かって火を吹き、空からはヘリコプターによる機銃掃射が町を襲った。また、軍は途中で何人かの地元の人たちを捕らえ、彼らを人間の盾にして町に進軍してきた。仲間を犠牲にすることはできないと、猟銃は黙るしかなかった。

多くの住民は山に逃げ、町は軍の手に落ちた。兵士は抵抗する人たちを殺しただけでなく金品を強奪し、町の中を破壊して回った。軍は逆らう人間を許さない、たとえ丸腰の一般人でもだ。ミャンマーでは軍への抵抗が起きるといつもこうだった。特に少数民族の人たちは軍の標的にされてきた歴史がある。町に残ったのは、銃弾に倒れた住民の遺体と、山へ逃げるのが難しい年配の人たちや小さな子どもたちだけだった。

軍が強襲したのはルィンさんの町だけではなかった。チン州の中の主だった町へ重火器を装備した軍隊を空軍を使って送り込んだ。中には、軍の放火により町全体が炎に包まれたタンタランという町もあった。山に逃げた住民たちは、自分たちの故郷でもある周辺の村へ逃げた人たちもいたし、国境を超えてインドまでたどり着いた人たちもいた。

立ち上がった住民

町を支配した軍は、そこを拠点として他の地域を陸路で攻めようとしたがうまく行かなかった。ルィンさんの町での最初の戦いのように、陸路を進軍してもすぐに地元の人たちにやられてしまったのだ。

住民が使う武器は当初は猟銃だけであったが、手製の即席爆発装置(IED)を使うようになった。車道に爆発物を仕掛け、軍の車が来た瞬間に爆発させるのだ。遠隔装置はスマホを使っているという。軍は何度も車で移動しようとしたがその度にやられてしまった。結局、軍は町の中でじっとしているしかなかった。時々、重火器で近くの村へ向かって砲弾を発射するだけだ。

この頃にはチンの武力抵抗グループはCDF(チンランド防衛隊 / Chinland Defence Force)やCNDF(チン民族防衛隊 / Chin National Defense Force)と名乗るようになった。元々チン州にはCNA(チン民族軍 / Chin National Army)という民族武装組織があった。クーデター後に自発的に立ち上がった若者たちのグループがこのCNAと連携し、CDFやCNDFと名乗るようになったのだ。こうした現象はチン州だけではなかった。ヤンゴンのような大都市でもルィンさんの町のような辺境の地でも同じだった。どこかの誰かが指示したのではなく、自然発生的にミャンマー全土で若者たちが立ち上がったのだ。彼らは今ではミャンマー全体としてPDF(国民防衛隊 / People's Defence Force)と名乗っている。PDFの規模は正確にはわからないが、チン州だけで1万人以上、全土で10万人以上いると言われている。

軍はチン州全体を支配下に置こうとしたが、チンに住む人々の抵抗によりその計画は潰えてしまった。ハカ、ファラム、ティディム、ミンダ、マトゥビ、パレッワ等々の主だった町は空軍と重火器により軍が占領したが、それ以外は最北部のトンザン地区など一部を除き全て地元のチン人たちが自主的に運営している。私が以前行ったことのある小さな村は今ではCDFの拠点のひとつとなり、多くの若者達が生活しているという。軍はチン州の中でいくつかの町を「点」として占領しただけだった。

抵抗の象徴、トゥミ銃

ところで、チンの人たちが使っていた猟銃はトゥミと呼ばれる自家製の銃で、CDFの徽章にも描かれている。今やトゥミは抵抗の象徴となったのだ。チンの家ではこのトゥミが必ず何挺か置いている。山に住む彼らは動物を仕留めるために昔から弓矢やトゥミを使ってきた。19世紀にミャンマーを植民地にした英国軍と戦ったときにも、チン人の祖先たちはこの銃を手にした。トゥミはナポレオン時代にヨーロッパで使われていた先込め式のマスケット(銃)の一種で、一発撃つのにとても時間がかかるし射程も短い。軍が持つ自動小銃と比較すると圧倒的に性能が劣るトゥミだが、チンの人たちは山の中を走り飛び回る動物をこの銃で仕留めてきたのだ。

このトゥミは最近まで町でも生産されていて、クーデター前で一挺20〜30万チャット(当時のレートで2〜3万円ほど)で売っていたという。ルィンさんの話だと、1発撃って次の弾丸を発射できるまで5分もかかるという。また、射程は100フィート程度なので、獲物に近づかないと仕留められない。

当初はこのトゥミでもミャンマー軍と互角以上の戦いをしていたチンの人たちだが、空からの援護があり重火器を装備した軍と戦うとなるとトゥミでは力不足だ。軍から兵器を奪ったり、軍を離脱した兵士が銃を提供することもあったが、やはり絶対数が足りない。他から手に入れるしかない。ルィンさんの話では、世界的に有名な銃、カラシニコフAK-47をコピーした中国製自動小銃が中古で600万チャット(約30万円)程度という。ただし、中古だからか不良品もかなり混入しているらしい。また、隣のインドから入ってきたインド製の散弾銃が200〜300万チャット(10〜15万円)だ。クーデター以前は今よりずっと安かったというが、クーデター後はこうした武器の値段が一挙に上がり、入手に苦労しているという。

軍による尋問

軍が占領した後も町に残ったルィンさんだが、生活は楽ではない。町の出入りが厳しく制限されているため、食料品や医薬品、日用品などが不足している。また、年配者といえど軍は容赦なく捕まえて尋問する。ミャンマー軍による尋問には黙秘権など存在しないし、拷問が当たり前だ。場合によっては拷問によって死亡することもある。ルィンさんも軍に捕まり、数日間勾留されて厳しい尋問を受けた。寝るときも食べるときも24時間ずっとロープで手足を縛られたままだったという。

兵士たちは占領軍として町の中に駐留しているが、不思議なことに軍服ではなく私服姿だという。ジーンズを履いた若い兵士は見た目は普通の若者である。それには理由があった。チン人のレジスタンスであるCDFが町を攻撃に来ることを恐れているのだ。彼らミャンマー軍の兵士は士気が低い上、実戦でチン人たちの強さを知ったからだ。

ルィンさんは2週間ほどのヤンゴン滞在を終え、チンの山に帰っていった。これからミャンマーは最も寒くなる季節、山では気温が氷点下まで下がる。厳しい状況の中でチンの人たちはこの冬を越さなければいけない。

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