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自分の言葉を探している

最近、考えていないなと、ふと思った。

思考が浅い。

日々何を食べるかと、仕事のスケジュール調整と、いくつかメドをつけた新規の会社に応募しなきゃなあということくらいにしか脳みそを使っていない気がする。しかもノロノロ運転だ。

仕事で使うのとは別の、個人的な思考を司る部分を働かせていない。サボっているのか、休んでいるのか、何なのか。

こういうときは、書くにかぎる。仕事の締め切りに追われているのでメモみたいなざっくりとした所感になってしまうけど、いくつか考えたいことを書き散らかしておいて、あとで時間を作ってそれぞれのテーマを掘り下げて書いていこうと思う。

機械翻訳について。

人間は間違える生き物なんだから、AIだって間違う。自動翻訳が発達すれば外国語が分からなくたって生きていける、と楽観する人の意見をTwitterで見た。世界中のすべての言語を理解することは無理だけど、せめて英語は一生勉強し続けていって、自分の頭で理解したいと思う。AIのフィルターを通して説明された世界は、やっぱりありのままの世界じゃない。私自身が理解した世界で生きていたいと思う。

字幕翻訳の仕事について

翻訳に正解はないけれど、そのときの自分にとって正解だと言い切れるものを出し続けていかないとダメだ。これまでは、仕事ができてうれしい、楽しいという気持ちがどこかでわずかに勝っていたと思う。だけどこれから先は、もっともっとプロ意識をもたないと。誰よりもシビアに自分の実力を判断して、見極めていかないと。

英語日記について

英語で考えて文章を書いていると、他者と自分とをより切り分けて考えられる。他者のこういう意見について私はこう思った、ということを書こうとした瞬間、気づくのだ。それだと他者の意見を紹介することに主眼を置いてしまっている。あくまでも「他者の意見」なのだから、そこに私の感情を必要以上に寄せていかなくていいよな、ということに自ずと気づく。

他人の意見に何らかの刺激を受けたとしても、あくまでも、私が何をどう考えているかが重要なのだ。だから、他者のこういう意見を見て、私はこう考えた、という論調に持って行きたくなる。というか、そうしないと文として成立しない。据わりが悪い。

日本語は、ふんわりとあいまいに書けてしまうし、言えてしまう。それを相手もなんとなく受け取って、なんとなく表面上理解できてしまう。英語ではそうはいかない。「自分の考え」をしっかり持っていないと、何を言いたいのかがかすんでしまうという、当たり前の事実がよく分かる。感情を伝えるために、思考を論理的に整理して、文を組み立てていく必要がある。

※「#熟成下書き」という面白いお題に乗っかって、2018年10月29日の午前3時過ぎに書いていた下書きを、そのまま放出しました。これを書いた時からあっという間に2か月が過ぎようとしていることにバカみたいに驚いてるけど、やっぱりメモみたいなものでもいいからふと思ったことを書き残しておくのはいいことだなと思った。

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