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ピンクについて、私も少しだけ語ってみる

2017年9月に発売された「早稲田文学増刊 女性号」。(文芸誌なんて買ったことがなかったのに、この巻頭言が素晴らしくて購入を即決した。)その表紙の色にピンクを使ったことに、賛否両論があったという。

「ピンクについて語るときに私たちの語ること 川上未映子+名久井直子+堀越英美」

この鼎談記事を読んで、私もピンクについて少し語ってみようと思った。

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とても素敵な表紙で、初めて手にしたとき「女性号」と銘打った文芸誌の表紙に淡いピンクを使っていることに、何となく「自由」を感じた。社会に押しつけられた「ピンクは女の子の色」というイメージを甘んじて受けているわけでも、そこに強く反発して皮肉を表しているわけでもなく、「この色がいい」という柔らかな意志の強さのようなものを、この表紙の淡いピンクから感じ取ったのだ。

この女性号の責任編集である川上未映子さんが冒頭の記事で以下のように述べている。

今回の「女性号」はその成立過程もふくめて、ひとりの人間による責任編集号なので、その人間がピンクを色として好ましく思っていること、「女性号」にふさわしいと思っていることを表明することも、「女性号」の意味に沿うことなんじゃないかと考えました。
それにしても女性号の表紙に使っただけで、「代理店」とか「おっさん」のような、存在しない背景を想像させる「ピンク」って、あらためて特殊な文脈をもっているんだなと痛感しますね。
出産でも子育てでも、あるいは職業でも、それこそ女性ということでも、世間一般のイメージや物語があるわけですよね。「自分の人生を生きる」って、そこから自分のものをどう奪回するかという話じゃないですか。「これはわたしの一回きりの人生で、百の千の万の例なんていうのは関係がない」と言えるかどうかは重要ですよね。ピンクだってそれと同じ問題で、今回の表紙には、「このピンクと、あのピンクは違うのだ」という表明の意味がひとつ、ありましたよね。

ここから、私とピンクとの関係性について少し書いてみる。

昔から、学校や家やお店で好きな色を自分で選ぶ場面では、青や緑を選んできた。単純にしっくりくるから青や緑の色味が好きで、場合によっては黄色やオレンジなどを選ぶこともあった。だけどピンクだけは、選択肢にすら入らなかった。ピンクには「いかにも女の子らしい女の子」というイメージがすり込まれていて、「ピンク的な女子」ではない自分がピンクを選ぶことは何となくばつが悪く、条件反射的に除外してきた気がする。

ピンクが好きか嫌いかを自分自身で選ぶ前に、心のどこかで他人から見たピンクのイメージを変に意識してしまうという意味で、ピンクは私にとって不自由な色だった。

そうやってずっとピンクから目を背けてきたけれど、数年前くらいから、さまざまな色味のピンクを目にしたときに自然と「素敵だな」と思うことが増えた。その自分の感覚の変化を、単純に嬉しく思う。年を重ねるほど、他人がどう思うかは関係なく、自分が主体になって自由に「好きだな」と思えるものが増えていくことは、自分が解放されていくようで心地いい。

ピンクと同じように、昔はバラの香りも客観的なイメージとして「女性らしさ」が強調されているような気がして好きになれなかった。華やかな香りを吸い込んでも脳がそれをいい香りだと判断するのを拒否していたような感覚、かもしれない。そんなバラの香りも、最近は純粋に1つの香りとしてとても好ましく思うのだ。

そんなふうにピンク色やバラの香りを「いいな」と思うとき、その色や香りには「女の子らしさ」や「女性らしさ」のような社会的に作り上げられたイメージはもう付きまとっておらず、あくまでも私とピンクが、私とバラの香りが、1対1で向き合っているだけだ。

いつの間にか自分を縛っていた「他人目線が入り込んだ基準」は、少しずつするすると脱げ落ちていく。これからも自分を縛らずに、枠にはめずに、余白を持たせて、柔らかくありたい。改めてそう思えた。

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