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あなたは、かけがえのない家族だから【第2話】『鏡』



プロローグ

 途中下船して小舟にのりかえた。
 苦楽を共にしてきた家族との旅路が胸に去来し、たったひとり、遠ざかる船影を見送りながら、切なさと寂しさにさいなまれた。
 ──娘の手を取って引き寄せ、抱き締めてやりたい!
 ──全身全霊で守ってやりたい!
 願望は海の藻屑もくずと消え、手を差しのべることは到底できはしないのだ。
 家族をのせた船は、沖へ沖へと次第に小さくなり、やがて視界から消失した。
 嘆き、叫んでも声は届かない。この、母の思いは最早伝わらない。
 やるせない刹那を、取り残された小舟の上で耐えなければならない。小舟で大海原をゆかねばならない。
 死出しで道行みちゆきを嗚咽しながら、娘の無事を私は祈った。祈ることだけが、せめてものはなむけなのだ。残された者へのせめてもの……。


 一人娘が通う小学校の下校時刻を告げる『遠き山に日は落ちて』のメロディーが、開け放たれた南向きのサッシ窓から爽やかな初夏の微風にのって、優しく鼓膜を揺すぶった。
 頭の中で歌詞をメロディーにのせ、ハミングしながら意識は玄関へと向いた。と、しばらくしてドアが開き、快活な「ただいま」が部屋いっぱいに元気をみなぎらせた。
 リビングの鏡台の前に座り続ける私の右目の視界を陽光がかすめ、窓外を見やる。雨音は去り、雲間から陽は射し始めた。
 鏡の奥に娘が現れた。冷蔵庫からペットボトルを出して冷えた麦茶をコップに注ぐ。一気に飲み干し喉を潤すと、ダイニングテーブルの上にコップはそっと置かれた。フーッと息を吐き終えると、私の背中に向かって大きく手を振りながら満面の笑みを覗かせる。こちらも鏡越しに小さく手を振って娘のシグナルに応えた。
 今年、小学校に入学したばかりの我が子の成長した姿に、思わず笑みはこぼれ、しみじみと熱い眼差しで、鏡の外へ移動する影を見送った。
 網戸の目をかいくぐって、少し強い風がまつ毛をくすぐり、目をつむる。明け方の夢の風景が瞼の裏に浮かんだ。たったひとり船を見送る時の切なく寂しい気持ちが蘇り、胸をえぐる。息苦しくなって目を開け、再び鏡を覗くと、ふと亡き母の顔が浮かんだ。
 己の顔に刻まれた母の面影に微笑みかけ、しばらく見つめたのち、そっと鏡に触れてみる。指先に温もりを感じたとたん、鏡の中から眩い光が網膜を襲った。反射的に目を細めたものの、光は一瞬で消えたので目を見開き、光源を求めて光の筋を探りながら触れていた指を引っ込める。
 背後から呼びかけられ、振り返った。


 今、確かに名前で呼ばれた。
 声音こわねを変えた娘の悪戯だろうと勘繰りながら室内を見回してみる。どことなく見覚えのある空間が広がっていた。
「ここは……」
 ──私の実家だ!
 しかも、建てかえられる前の木造平屋の茶の間の風景だった。ずいぶんと古い佇まいは郷愁を誘い、胸を締めつける。
 西日が深く差し込んで窓枠の影を畳に落とした。
 ──どういうこと!
 放心している私の耳が微かな衣擦れをとらえた。気配をたどって視線を台所へ向けると、誰かが鼻歌交じりに夕食の支度をしていた。じっと後姿を見つめる。
 ハッとしてその背に向かって呼びかけた。
「お母さん!」
「お腹すいた? もうすぐできるから、手、洗ってらっしゃい」
 ──こんなことって……?
 混乱しつつも、勝手に足は動いて茶の間に接する六畳間の畳を踏んでいた。思わず片隅に目が行く。マンションのリビングに据えられたはずの母の鏡台が鎮座していたのだ。さっきまで私と娘の姿を映していた。
 引きつけられるようにそちらへ移動し、鏡台の前に膝をつく。鏡に映し出された姿に息を呑み、とっさに立ち上がって全身を確認してみる。
 少女が立っていた。身にまとった真っ青なワンピースは、私の小学校入学式の折りに着用した晴れ着だ。母が縫ってくれた。今はマンションの寝室のタンスに宝物として大事に仕舞ってあるはずの……。
 目前の少女を見つめるうち、あの日の感情が怒涛のように全身を駆け巡り出した。嬉しくて嬉しくて胸がときめき、心は真っ赤に熱く染め上げられ、興奮はおさまらず、帰宅しても晴れ着のまま過ごしたのだ。鮮明な記憶の中に母の笑顔があった。母の眼差しが、喜びを増幅させ、はち切れんばかりの幸福感に、幼い心は優しくなった。
 再度、私の名を呼ぶ母の声が、時空を飛び越え、耳に届いた。
「はーい!」
 居ても立っても居られず、鏡台の前を離れ、一目散に台所へ飛び、母の横にベッタリと寄り添って母を見上げる。
「待ってて、これ焼いたらおしまいだからね」
 母はチラリと柔らかな眼差しをこちらに落とした。とたんに、胸底の凍え切ったわだかまりは溶け、私は虜となって、母のムスメに戻ってしまった。
 母はボウルに卵を三つ割り落とし、砂糖、醤油、最後に顆粒和風ダシを適当に入れ、サイバシでかき混ぜ始めた。
 私の大好物の玉子焼きだ。普段、弁当に入れる時などは、私の好みに合わせ、塩のみであっさりめに仕上げてくれる。が、今日は入学式当日のお祝いとあって、少々豪勢な味付けのようだ。何の変哲もない市販の調味料に過ぎないのに、母の手にかかると、絶妙な味のダシ巻き玉子に変貌する。これがめっぽう美味い、母の味だ。
 撹拌し終えると、既に火にかけられた玉子焼き専用の四角いフライパンに一気に流し込んだ。ジュワーッと耳触りの良いリズムを取りながら油が弾ける。手際よくサイバシでグルグル全体をかき回しながら少しずつ固まってきた。
 私はサイバシを長い脚に見立て、舞台で舞う踊り子を想像する。
 半熟状態である程度しっかりしてきたら、フライパンを上下に振りつつ、向こう側から手前へと三つ折りに畳むように巻き込んで形を整えてゆく。フライパンを一度だけ煽ってサイバシでクルリと玉子焼きを引っ繰り返した。
 ものの数分で仕上がった今晩のメインディッシュは、私の鼻腔をくすぐり空腹を刺激する。
 舞台の上で完成したふくよかな肉体を自慢げに皿に横たえしばらくすると、疲れた踊り子は、熱が冷めるとともに萎んで痩せてしまう。黄と白のコントラストで彩られた姿態に私が見とれていると、母は容赦なくサイバシで手足の一部をもぎ取って私の口へ放り込もうとするので、大きく口を開いて頬張った。と、喝采に応えるように、踊り子は存分に手足を伸ばして躍動する。ダシの味わいとほんのりと醤油の風味が鼻に抜け、しょっぱさと砂糖の程よい甘さとが絶妙にハーモニーを奏で口いっぱいに広がった。
 私が微笑みかけると、母も満足げに笑みを向け、食卓を他の食材で飾り始めた。私も手伝って、皆の食器を設え終えると、また鏡台の前に座り、幸せいっぱいのこの顔を映した。鏡に台所の母の姿が見え隠れする。と、突如、暗い気分に襲われた。

     *

 家族皆での船旅の途中、何の前触れもなく、母だけが下船してしまう。楽しかったはずの旅は、母ひとりが抜けただけでこの上もなくつまらなくなった。寂しさの果てに悲しみと怒りが生まれ、憎しみめいた感情が私の心を常に蝕んだ。母の気配を失った晩、寝床で幾度となく胸をかきむしりながら、いつまでも恋しがり、ひとしきり泣いた。
 もうじき母は、私を置き去りにしてひとり旅立ってゆくのだ。
 何かにつけ、傍らに母がいないと思い知らされる時、母への思慕は、いつしか憤怒に置きかわり、子供時代はむなしく過ぎ去った。後年、母を思う度、こんなやるせない複雑な感情を強いた母を激しく恨んだものだ。成長するにつれ、諦めとともに感情の昂りを抑制する術を学んではいったが。

     *

 長らく封印した感情に苛まれ、闇の世界へと心を押し込められ始めた瞬間、鏡の中に光点が現れた。それは母のにおいを伴いつつ、次第に揺らめく炎となって、円形の虹をまとったかと思えば、たちまち視界に広がり、私を包み込んだ。その温かさに私は涙した。
 幼い日、母のかいなに抱かれた記憶が蘇り、どういうわけか心は陽の当たる場所へと誘導されるかのように穏やかさを取り戻していった。同時に、私の心は、子供から大人、母親へと成長を遂げ、死にゆく瞬間の母の心根が、今の自分には手に取るように分かったのだ。
 母は私をこよなく愛してくれていた。それを肌で感じ取ることができる。母のいたわりを知った私の心は満たされる。


 満たされた気分のまま、ぼんやりと鏡を覗いていたら、鏡の世界に娘が映った。目の焦点を晴れ着をまとった少女から娘に絞ると、次第にこちらに近づいて来る。背後からの声にふと我に返った。
 娘の体温が背中から全身に伝わる。その喜びを目をつむってしみじみと味わった。彼女に抱き締められたまま鏡を覗くと、母の微笑んだ顔が一瞬だけ浮かんだ。晴れ着のままの少女の姿は消え、母の面影を遺した自分の顔が笑っていた。辺りを見回すと、先ほどまでいた実家の平屋ではなく、夫と娘と暮らすマンションのリビングだった。
 私は完全に白昼夢から目覚めた。
「ママ、こっちに来て」
 娘にいきなり手を引っ張られ立ち上がる。促されるまま食卓に着くと、いつ帰宅したのか、夫もダイニングに顔を覗かせる。
「あら、いつ帰ったの? 気づかなかったわ、フフフ……」
 夫と娘はダイニングテーブル越しに並んで突っ立ったまま笑っている。
「そうだ! ちょっと待ってて」
 私は立ち上がり、ボウルを用意すると卵を三つ割り入れた。調味料をサッと投入して手際よくサイバシを操る。
 私の玉子焼きは母の味そのものだ。母から手取り足取り手解きを受ける時間など幼い私には当然なかったのに。ただ、母の家事をこなす音は、物心ついた頃から耳にこびりついていたので、母の後姿を思い浮かべながら、母のリズムを真似ているうちに自ずと同じ味を再現できたに違いない。ムスメに受け継がれた、“リズムが奏でる母の味”とでも言うべきか。これが我が家の伝統の味になってゆくのだろう。
 ふっくらと焼き上がったダシ巻き玉子を皿に移し、端を摘まんで娘の口へ近づけた。娘の口が大きく開くと、そっと舌にのせてやる。と、娘は満足げに舌鼓を打った。
「ママの玉子焼き、サイコー! 今度のお弁当、これがいい」
「わかったわ、そうしましょうね」
 娘の言葉に胸をくすぐられ、自ずと口元は綻んだ。
「お腹すいたでしょ? すぐに支度するから、ちょっと待ってて」
「ママ、今日はいいの!」
「エッ、どうして?」
「もう準備できてるもん」
 私がキョトンと夫に目配せするとすぐに視線を外し、二人してダイニングを出た。再び戻って来た時には、たっぷりのご馳走がのった大皿を、それぞれが抱えていた。私の目につかぬ所に置いてあったらしい。テーブルに今晩のメニューは並べられた。
 突っ立っていた私の手を強引に取って座らせた娘は、ニヤニヤ笑って横に立ち続ける。
 と、夫が白い箱を後生大事そうに抱えて傍まで来ると、静かに私の前に置いた。私の目をチラと覗きながら、ゆっくりともったいぶった仕種で蓋を開けた。


「ママ、お誕生日、おめでとう!」
 娘の明朗な声を合図に、夫がローソクに火をつけた。
「今日、ママの誕生日だったんだ! すっかり忘れてたわ」
 二人で示し合わせ、サプライズを企てていたのだとようやく気づいた。
 娘は上目遣いに悪戯な視線を向けている。その表情に胸が詰まった。感情のうねりに最早言葉など失くし、目頭が熱くなる。思わず娘を抱き締めていた。
 私は旅の途上で家族の元を決して離れはしない。少なくとも生きてゆく術を伝え終えるまでは娘と共に旅を続けるのだ。
 ──この子を残して下船してなるものか!

     *

 子供の私にとって母の死は恨めしいだけだった。あたりまえにあるものが、あたりまえのようになくなってしまう。そんな不条理がこの世に存在するなんて。母の温もりは永遠でなければならないはずだ。
 ──それを奪ったのはナニモノか!
 怒りを露にしても、どこへぶつけていいのかさえわからなかった。
 だが、母親となった今、母の気持ちが痛いほど理解できた。たったひとり、船出を見送る切なさ、侘しさ。守ってやるべき娘に手を差しのべてやることは永遠に叶わない、と悟った瞬間の狂おしいまでの慈愛……。
 ──もし今、娘を置き去りに、命尽き果てたなら……?
 そう思っただけで身震いするほど胸は凍え、張り裂けそうになる。死んでもなお、魂は娘を包み込み、決して離れはしないだろう。
 母の無念を思うと、娘の顔が涙で霞む。潤んだ目で彼女を見つめ続けた。
 私は知っている。この眼差しは、母からの賜り物だと。それはいつの日か娘にも授けられ、未来永劫、代々受け継がれてゆくのだ。
 ふとリビングのほうに視線を移すと、鏡の中に、幸福な家族の姿が映し出された。鏡は二つの世代を映してきた。
 ──あの不思議な白昼夢は……?
 母からの祝福だったのかもしれない。
 ──母の灯した命のほむらに導かれながら、母親へと成長を遂げたムスメへの……
 私は慈愛に満ちた眼差しを娘へ投げかけながら、今、強く母の存在を感じた。これまで気づかなかったけれど、母は、私の中に確かに生き続けていたのだ。

     *

 娘は口を尖らせ、しきりに吹く真似をして、早く火を消せ、と急き立てる。
 私は胸いっぱい娘のまとった空気を吸い込んだ。ローソクにゆっくりと息を吹きかけると、炎はゆらゆら踊りながら静かに役目を終えていった

              〈了〉


『子を持って知る親の恩』
と申しますが、
誰しも子供時代に思いを馳せれば、どれだけ “ お母さん ” に守られていたかを痛感するでしょう。
──鏡の前でそっと呼びかけてみて!
きっと、 “ お母さん ” が微笑みかけていますよ。
「お母さん……」


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