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【契約下の意図的な関係】と【契約のない自然な関係】。私にとっての社会との交わり。

こんにちは。

春野太陽です。


グループホームでの生活も板についてきました。

とはいえまだまだアパートの外にはあまり出たことがない状況。

世話人さんたちと会話をする要素だけでも

ただの一人暮らしよりだいぶ安心感を得られてはいますが

『社会』というものと一体化したかといえば

まだまだな感じです。


以前、引越しブルーの話をあげました。


この時の引越しブルーには

単に今のお気に入りアパートから退居という行為よりも

そこの街全体への思い入れの強さという精神面がかなり影響していたと思います。

その街には大きな公園があり、お花屋があり、美容室があり、鍼灸治療院があり、神社があり…。

公園を見れば老若男女が笑顔で時間を過ごしている。

近くを犬の散歩させている子供やお母さんやご老人と会釈をして挨拶を交わす。

お花屋さんに行けば季節の話やお花の話で雑談ができる。「いつもありがとね〜」って言ってくれる。

美容室に行けば数ヶ月の間の近況を気負うことなくお話しすることができて美容師さんが耳を傾けてくれる。冗談やギャグだって言い合える。

鍼灸治療院に行けば、私の経緯を知っている鍼灸師さんが、毎月いろんな話を聞いてくれて、鍼の治療だけじゃなくて心のエネルギー補給にもなってた。

神社には毎月お参りに行って自分の1ヶ月を振り返ったり次の1ヶ月の目標を語ったりした。神様がそこにいるかなんて実態は分からないけど、あの場に行くことできっと見えないところで頑張ってる人のことを見てくれる人もいるって思えた。

そんなふうに、【私】という唯一無二の存在が

ちゃんとその街で【私】として認識されて

街に存在する建物や人々と一体化して

何か気持ちを交わし合うような感覚が

私にとってはとても重要なことだった。

私はそれを【契約のない自然な関係】と呼んでいます。


【契約下の意図的な関係】もあるということです。

というのも障害者雇用で働いてた会社をクビにされた時に

紙の脅威的で抜群の効力に恐ろしさを感じました。

『どんなに障害者と共に働けるように整えるとはいいつつも、結局は契約の関係なんだな。どんなに春野さんのことサポートすると言ってくれた先輩たちとも、この紙一枚で関係は終わり。その後のサポートが続くわけでもなんでもない。』

『『働き続けたい』って強く望む私が紙一枚で契約が終わる。一方で『こんなやつと結婚して本当に私は不憫だ』『離婚してやる!』なんて言ってる毒親は離婚もせずに十何年前の婚姻届一枚で共依存し続けてきた。
本人が望まない、あるべき形じゃない結果を紙一枚の契約で生んでるじゃないか。紙一枚の効力って、なんて信用できなくて恐ろしいものなんだ。』

契約書1枚で、離れたくないと望む人を離れさせることもできれば、離れたいと望む人を無理にくっついたままにさせることもできる。

とても恐ろしいことだと思いました。

この【契約下での意図的な関係】は、契約を結んでいている期間だけ一体感を感じられ存在意義を感じられますが、その組織との契約が終わった瞬間に一気にボロボロと倒れて終わってしまいます。

「契約だから」「うちの会社の労働システム管理上その対応はしかねる」

って言われちゃったら、全部辞める責任は障害者側。

会社は利益追求であって障害者ボランティアではないってわかってはいるけど、

それなら障害者雇用はなんのための枠?
そのシステムで誰がその枠で働けるの??

そう思ったら、入社時から優しく対応してくれた人事も上司も先輩も、一気に突き放してきたように感じられてつらかった。

私が感じていたこの会社での人との繋がりや存在意義はどこへ??

本当にもろかった。崩れるのはあっという間。

契約ってそんなもん。


でも【契約のない自然な関係】は、崩れることも倒れることもない。

ただ散歩にすれ違う時に挨拶するだけ。

公園で遊ぶ地域の人たちの声を聞くだけ。

髪を切ったり花を買いに行く時に雑談をするだけ。

そこには、私を紙一枚で雇うとか排除するとかの概念はなくて

出会えれば話すし顔見るし、それ以上でも以下でもない。

きっとその土地から離れた今でも、また会いに行けばいつも通りまた話せるだろう。

そんな感じ。

伝わってるか分からないけど、

私にとっては【労働=社会とつながる】

ではないことが明確にわかりました。

労働契約じゃないもので構築できる人間関係じゃないと

信用できないし、長く続かない。


そんな心情を抱えている中、

たまたま先日グループホームの周辺を

数時間探索できる機会がありました。

歯医者さん、鍼灸師さん、スイーツ屋さん、衣類店などまわることができました。

そこでの収穫がとても大きかった。

歯医者さんと鍼灸師さんはこの街でまた探さなきゃと調べて行ってみたのですが、

私の希望の治療をしてくれて居心地の良い医師と鍼灸師さんでした。

近所にあって体の悩み事を聞いてくれて、

解決してくれるのは心強いです。

歯医者と鍼灸の予約の合間に時間ができたので

ブラブラと自転車を走らせていると

可愛いワンピースが並ぶ店とセールの文字。

自転車をふいに止めて店内に入ると

笑顔のおっちゃんがお出迎え。

「最近引っ越してきたばかりなんです」というと、

いろいろと街のことやお店の創業のことをお話ししてくれました。

かわいい服がたくさんあって「また来ますね!」「ありがとよー!」なんて言葉を交わせて、すごく嬉しかったです。

スイーツ屋さんもみつけて
美味しそうな商品に目がキラキラして
「またのご来店お待ちしています」って言われて
その言葉だけで嬉しくなれた。


今までは『この街にあるグループホームの住人』でしかなかった私が

『この街の市民であり街のつながりの一員』
『〇〇市の街と自分がひとつになった』

という大きな実感を得れた1日になりました。



【労働で得る存在意義の喜び】
【それが障害者の社会復帰】

なんてよくいうけれど、

【労働で感じる契約の人間関係のもろさ】
【それが障害者にとって諸刃の刃】

であることも今の私にとっては事実です。



ただすれ違う人と挨拶できれば、それでいいんだよな。

ただ街を見渡して道端に咲く花を見つけて嬉しくなれるだけで、いいんだよな。

組織の中だけでしか居場所がないより、

街が全部自分の居場所の方が心地いいじゃん。

会社という狭い世界で契約にしばられて雇用されたり捨てられたりするより、

街全体の広い世界で自分のペースを大事にして療養すればいいじゃん。


それでいいんじゃん。

結局、人との交流とか社会と交わるってそれでいいんだよ、きっと。



2024.06.02(Wed)
春野太陽

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