散るならば、
桜が、雪みたいだ。見上げると目が回るほどだというのに、彼女は飽きもせず延々とその桜吹雪を仰いでいた。僕はといえば、卒業式後の校門の悲喜こもごもの輪の中から少し外れて、そんな彼女の後ろ姿をぼーっと見ていた。遠くで卒業証書の入った筒の蓋を開けたり閉めたりしている男子の、そのぽこぽこという音は水泡が弾けるみたいで、遠くのざわめきはさざなみにも聞こえる。
「打越さん」
彼女の名前を呼ぶと、やっと首をおろし背を向けたまま「なに」
とこたえた。何を、言いたかったのか、わからなくなって黙っていると、打越さんはふわりと振り向いた。微笑みと呼ぶには寂しすぎるその表情には、頬に花びらが張り付いていた。それが少しおかしくてつられて僕も微笑んだ。
「みんなと話さないの?」
「うん。今はね、失恋を慰める時間なの。」
彼女の言うことは、相変わらずふわふわしている。と言うより、彼女だけが理解しきれる文脈で言葉を紡ぐから、僕にはふわふわとした言葉としか理解ができないのだ。
一瞬の風が吹いて、頬の桜はヒラヒラとどこかへ飛んでいってしまった。
「多田くんは、何してるの?」
「うん。僕は友人なんて数える程しかいないし、別れを惜しむ後輩もいないから、ここでぼーっとしていた。」
「そっか。ねえ、こっちにおいでよ。」
さざなみの音が遠ざかる。桜の下にくると、本当は何も音は聞こえないのに、何かが奏でられているような錯覚に陥った。
また校門に背を向けて立つ打越さんの、横に並ぶ。
「多田くんは、卒業ってなんだと思う?私たちは高校生じゃなくなって、もう子供って訳でもなくなって、でも全然大人にはなれないよね。」
真っ直ぐ正面を見たまま打越さんは話す。答えなんて求めていないのかもしれない。
「はやくおとなになりたいの?」
打越さんは首を横に振った。彼女の頭の上に乗っていた花びらが少し落ちた。ざあざあとなる桜の木は、世界から2人だけを守ってくれているような気さえした。
「失恋って、夏目先生?」
「うん。さっき、断られてきたんだ。」
「そうか。」
打越さんと話すようになったのは、移動教室で席が隣になったからだった。お互い、あまり友達が多い方ではなかったが、初めての化学授業の日に休み時間に読もうと思っていた推理小説と、同じ作家の本を持って彼女は隣に座った。そこから僕達は、本の話を良くするようになった。打越さんは化学の授業が好きらしく、いつも熱心に授業を受けていたし、僕の分からない所を一緒に先生に質問しに行ってくれた。ずっと隣の席で見ていたからわかっていた、彼女はその胸に化学教師夏目への恋を慎ましやかに秘めているのだということに。
「夏目先生は、優しかったよ」
急にまた顔を上げて、微笑みながら彼女は言った。何かを失ってなにかに満たされているような、不思議な顔だった。
「正しく、断ってくれた。卒業したからといって、教え子とは交際できない。ごめんなさい、ありがとうって。」
「そっか。」
ふーっと息を吐きながら彼女が膝に手を着いて俯く。長い髪が肩を滑って地面に伸びた。
「好き、だったんだー、私。自分が思ってるより。心の深いところに先生が根付いちゃってる感じっていうかさ。」
眉根を寄せながらヘラヘラと笑う。僕はどうしていいかわからずに、一緒にへらへらする。ふと、彼女の足元に卒業証書の筒が転がっているを見つけた。拾い上げ、そこらじゅうに散らばっている美しい花弁を筒の中に入れる。ほんの少しのサプライズと、あの桜の雪の下に佇む彼女の美しさの欠片を残しておきたかった。
「ふふ、何してるの?」
「いやなに、思い出は綺麗に持ち帰りたいじゃない。打越さんの恋心も、綺麗にしまっておきたいなって、思ったんだ。」
ぽんっと筒の蓋を占め彼女に渡すと、彼女は真っ直ぐにこちらを見て、微笑みながら「ありがとう」と呟いた。桜の花びらがヒラヒラと舞って、また彼女の頬に張り付いた。その時になって僕はようやく、彼女が泣いていたんだと気がついた。
僕は自分の卒業証書の筒の蓋をぽんと開け、彼女の頬の花びらを涙と一緒に拭い取り、筒の中に入れて、蓋をした。僕の失恋は、彼女の視線の先に気づいた時に終わっていたけれど、こんな綺麗な終わりだったら素敵だ。綺麗な失恋としてとっておこうと思った。
足元は雪が降り積もったかのように真っ白だ。僕は打越さんにヘラっと笑って見せた。打越さんは少し不思議そうな顔をしたあとにヘラっと笑って
「私、やっぱり多田くんと話すのが好きだなぁ。」
と言った。それだけで、寂しい僕らの卒業式は満たされた気がした。
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