四季折々とコロッケ
昼寝から目を覚ますと、外はもう薄暗くなっていた。いくら日が長いとはいえ、日がな一日よくもまあ眠れるものだと自分に感心する。上に子供でも乗っているのかというように頭が痛むし、体の節々がきしむ。そろそろ起きないと、えみりの帰宅までに一日で散らかした部屋の掃除と洗濯が間に合わない。やらなくちゃがあたまをぐるぐると回る割には一向に起き上がる気になれず、手探りで枕元からスマホを見つけ出し、メールを打った。
「今日の晩メシ、総菜でいい?」
その一瞬の動作すら重怠く、そのまま放ってまたタオルケットを頭までかぶった。そうして目をつむって自分の最低さから目を背ける。仕事もせず過去のバイトの貯金を切り崩しながら友人宅に居候し、家事もそこそこ程度しかせず毎日布団の中でスマホをいじってばかりの鬱女。考えないように、また手探りで飲みかけの気の抜けた炭酸水と薬を取り出し飲み下す。地球の重力が私だけきっとみんなよりも強くて、だから精神科で流れるヒットソングのオルゴールヴァージョンにイライラしてしまうのだろう。スマホを手に取り開くとえみりから返信が来ていた。
「さくらみにいこ」
なんのこっちゃ分からない。そもそも私の質問にも答えてない。どう返信するべきか一瞬悩むが、そもそもそんな気を使い合う中でもないので正直に「なんで、飯は?」と返信すると、すぐ既読が着いた。
「今日遅くなるからいい。」
と、それだけ。結局桜はなんだったのか、釈然としない。が、えみりはこういう突拍子もない女だから考えても無駄だと思い直してトーク画面を閉じてお気に入りのプレイリストを流しはじめた。ゆっくりと体を起こすと、癖のある髪の毛がくちゃくちゃに絡まっていて、そういえば昨日はシャワーも浴びていなかったと思い出した。えみりは色々突拍子もない女で、本当は私と同じくらい地球の重力を感じてる女なのにきちんと働いて、鬱にもならずに一生懸命頑張っている。毎日お風呂にお湯を貯めてしっかり浸かり、スキンケアやヘアケアも欠かさないのでつるつるの髪にしっとりと潤った素肌をしている。彼女を労いたい思いでせめてもと晩飯を作るようにしているが、不器用で手際も悪く同時に色んなことが出来ないのでレパートリーは固定になりつつあった。とりあえずこの脂っぽい頭皮とおそらく臭いであろう口を綺麗にしてから、商店街に向かうことにした。えみりの好きなコロッケでも買ってやろう。
結局、えみりは11時過ぎに帰ってきた。プレイリストは、タイトルの忘れた何かしらの恋愛映画の主題歌を流している。またうたた寝していた私が、ドタバタとコロッケを温め直そうとしていると、カバンも置かずにえみりが
「桜、見に行こうよ。」
と呟いた。
「それなに?今8月だよ。」
「うん。わかってる。8月の夜に桜見に行こうって誘ってるの。」
頑なに桜を見に行くのだというえみりの顔は俯いていてよく見えない。それでも、否定しないで欲しいというような、何かが軋んでいるのがありありと分かった。8月の夜桜なんて全く何が面白いのか検討もつかないしなんでそんなもん見たくなったのか分からないが、えみりはそういう女だ。
「わかった。とりあえずコロッケ食べちゃいな。今あっためるから」
えみりはやっと少しほっとしたように息を吐いた。
自転車の後ろにえみりを座らせる。普段こんな小っ恥ずかしいこと嫌がる彼女だが、今日は随分と背中にピッタリとくっついてきた。重いと言うと笑って叩かれる。私はふと、この子にどうしようもないほどの幸せが降り掛かって欲しいと思った。繊細で突拍子もない、寂しがり屋で甘えベタなこの子に、世界中の明るい花弁を撒き散らしてやれたらいいのに。鬱で引きこもりがちで医者に社会不適合者の判を押された私にはできないのかもしれないけれど、この子のためになんだってやってやりたいような気がした。
川沿いの桜並木は、春になると花見客の家族連れで大混雑になる。あの頃はえみりも仕事が忙しく、私は最悪な鬱の波が来ていて到底起き上がることも出来ず延々と家でタバコを吸って泣いて眠って過ごしていた。
「ついたよ。」
うん、ありがとうとだけ呟くとえみりは自転車から降り、ふらふらと桜の下へ歩いていく。さっきまで背中にじっとりと汗をかいていたにもかかわらず、背中から急に寒さが染みる。
「硝ちゃん、さくら、綺麗だね。綺麗、だよね。」
こちらを見ずにえみりが放った音は、まるで煙草の煙のように、私に届いて息を詰まらせた。青々と葉を茂らせる桜並木はこのまま地平線まで続いていて、私たちの狭すぎる社会とは別次元のもののようにも思える。頭の中で、さっきまで部屋で聞いていた恋愛映画の主題歌がながれて、そういえばあの映画の結末は悲しいものだったと思いだした。
「えみりは、綺麗だと思って連れてきたの?」
横に立つと、彼女がつけている香水の香りがして、それがなぜだかまた私の息を詰まらせるのでこっそりえみりの左手の裾をつまんだ。
「綺麗、だと思う。っていうか、思いたい。いままで一度だって、夏の桜なんか気にしたことなかったんだよ。秋は紅葉があるし、冬は、わかんないけど雪が積もって綺麗だって思うのに、夏はさ、全然、まるで居ないないみたいに思ってたっていうか。綺麗じゃないと、見つけてもらえないなんて悲しいなって思ったから、8月の桜だって綺麗だって信じたいっていうか。」
えみりのきれいで柔らかい左手が私の汗でべとべとの右手を握って、なんだか二人の境目がそこで融合したような気がした。最初から一つの魂で生まれてこられていたら、どんなに良かっただろう私たち。
「私はね、全然何がきれいとかはわかんなかったよ。」
えみりの目が、水面を映すようにきらきらとしている。まっすぐに目を合わせるなんて久しぶりだけれど、不思議と恥ずかしさはなかった。
「でも、綺麗とかはわかんなかったけど、見に来てよかったなっていうか。私たちくらい見に来てやらないと、桜が8月の間だけ地球の重力に負けちゃうかもしれない。綺麗じゃなくても、綺麗なんだよ、きっと。」
えみりの表情は、昔ぐしゃぐしゃに握りつぶした履歴書みたいに歪んで、そのままこくりと頷いた。深呼吸してぱっと顔を上げると、
「はぁー!重てーなぁー!!」
と笑いながらべしゃりと地べたに腰を下ろした。そのまま足を延ばしてパタパタと地面を叩く。
「なんかさ、私にとっての春ってほんとに奇跡みたいっていうかまぐれみたいなもんでさー。会社とか学校とかではほとんど冬なわけ。たまに雪が降って綺麗ぐらいなもんで。だからって毎日しんどいってわけでもなくてルーティンみたいに生きれてるし。そこそこ楽しんでるしそこそこ幸せなんだと思うよ。」
「うん。」
「ずっとそんな感じでいいんだけど、死ぬまでそうってことはありえないでしょ、親はいつか死んじゃうし、仕事だってどうなるかわかんないし、硝ちゃんと死ぬまで一緒かどうかわからないんだもん。いつか絶対、上手くいかなくなったりいなくなっちゃったりして、私が一人になる瞬間があるんだよ。何十年後かもしれないいし明日かもしれないけど、必ずその瞬間は来ちゃうでしょ。」
えみりの横に腰を下ろす。ぬるい風が彼女のうなじの産毛を揺らした。桜の木ははるか上でざあざあとなく。
「そんなこと考えてたらさ、すごい怖くてさ。たぶん、死ぬより誰にも見つけてもらえなくなった時のほうがよっぽど怖いっていうか。だからさ、硝ちゃんと一緒に見たいなって思ったんだ。硝ちゃんがいつかいなくなっても、私が誰にも見つからなくなっても、8月の桜思い出せるかな、とか思って。」
もう一度、えみりの手を握る。今の自分の身一つどうすることもできない私には、えみりの恐怖や孤独をどうにかする術はきっとない。死ぬまで一緒にいるなんて言えないし、むしろえみりが愛想をつかさないで未だ私と一緒にいてくれることのほうが奇跡なのだと思う。えみりの、きらきらと黒曜石のような眼は、まっすぐに心根を映し出していて、時折子供のように見える。つるつるの純粋なまま大人になってしまってどうしたって濁れない。
「あのさ、私は今の自分のことも思い通りにできないからね、未来のこととか勿論うまく考えられないし全然わかんないんだけど、今現在の硝子として、えみりが良いと言うのなら、できるだけずっと一緒にいたいって思って、ます。なんていうか、約束はできないけど、そうなればいいなって思ってるっていうか…。私の人生ここのところずっと夏っていうか、しかもたまにでっかい台風くるし、傘とかもぶっ壊れちゃって春ってどんな感じだったっけって忘れちゃってる、みたいな感じなんだけど、それでもえみりがいてくれてよかったなって、思ってるっていうか....」
言葉が尻すぼみになる私を見ながら、えみりがちょっと笑った。やっぱりえみりは綺麗だ、8月の桜が綺麗かどうかはわからないけど、それを見ているえみりはとても綺麗だった。右の鎖骨あたりにえみりのおでこがくっついて、ぐりぐり押してくる。柄にもないけれど頭を撫でてみると、ふへっと笑って汗臭いよ、と言った。
犬にするみたいに両手でわしゃわしゃと撫でまわすと、えみりはされるがままに、シャンプーの匂いがする、と言ってまたふへっと笑った。
「アイス、買って帰ろう。奢ったるよ。」
「うっへ~私ダッツ!!」
手を引いて起き上がらせる。なんとなく手はつないだままで、自転車の両脇で二人で押して歩く。こういう今を重ねて重ねて、私たちは一つの魂に生まれなかったから手をつないで、生きていくしかない。相変わらず私たちは地球の重力に押しつぶされそうで、えみりはそのまま社会に出て、私は精神科で薬をいっぱい出されているけれど、今はそれはそれで、悪くないような気がした。
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