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自分で選び、学ぶ意味について

私の勤務する「モンテッソーリ原宿子供の家」は、モンテッソーリ・メソッドに基づいた教育を提供する幼児施設である。

子供たちは登園後の身支度が済むと、各自で教具棚からやってみたい教具を自分で選んで没頭する。どんな活動を選ぼうと自由、気に入ったら何度繰り返しても良い。子供によって発達の度合いや興味が違うので、同じ教室で1日を過ごしていてもやっていることはみんな違っている。モンテッソーリ教育において、学びは子供主体で行われるもの。教師が活動を選んだり、強制することはない。子供は好きなことをしているのだから自ずと集中する。ちょっと難しい活動を選んでも自分なりに試行錯誤したり、やりやすい方法を見つけたりする。

こうした過ごし方は幼児期だけに限ったことではない。モンテッソーリの小学校でも同様である。時間割もなく、教師による一方通行の授業もなく、期末試験もない。相変わらず自分で選んだ課題に取り組み、自分で考えたり、調べたりして納得する答えを見つけることを繰り返すのである。

話は脇道にそれるが、私が学生時代に通っていたのは日本の古き良き伝統的な公立校だ。毎日学校に行って授業を聞く。必死でノートを取る。テストを受ければ壁に順位を貼り出される。大量に宿題が出る。それが当たり前だと思っていたし、成績は悪い方ではなかったのだが、学習意欲がとても低かった。なぜか。根本的に勉強する意味がわからなかったからである。

全てにおいて「そもそも、なんでこれを暗記せなならんのであろう?」と小生意気に思っていたのである。得意な科目ならまだしも、苦手なものの場合はひどかった。長いカタカナを覚えるのがとにかく苦手だったので、「チグリス・ユーフラテス川」くらいなら覚えられても「マルクス・アウレリアス・アントニヌス」など舌を噛みそうになる単語に至っては「覚えて何の役に立つのか…」と日々モヤモヤしていたのである。

それから時は過ぎ、すっかり大人になった私はモンテッソーリ・メソッドに出会った。子供達が自主的に学ぶ姿を見た時、私の中に長いこと存在していたモヤモヤが一気に晴れた思いがした。若き日の自分の疑問の答え、それは「強制された学びは真の学びにならない」、たったそれだけだったのだ。好きでもないものを強制的に学ばせても、子供には何も残りはしない。

仮に私が歴史好きの子供で、世界史に壮大な一大ロマンを見出せたなら、あんな長いカタカナに翻弄されることはなかったはずだ。いや、やっぱり翻弄はされたかもしれないが、もっと違った心持ちだったろうと思う。

自分で選ぶことは、同時にその選択に責任を取ることでもある。自分らしい人生をデザインして行くためには自律した精神が必要だし、それが主体性を持って生きて行くことなのだ。モンテッソーリ・メソッドを学ぶ過程でそれまで自分の中でバラバラに存在していた考えが一つの輪郭を持つようになってきたとき、こんな気づきを得たのだった。

モンテッソーリ・メソッドは幼児に限らず、間違えなく大人にも「効く」。
「自由」や「自主性」、「個性」や「多様性」といったモンテッソーリ・メソッドの特徴は教育だけの問題でなく、そのまま生き方に通じるものであるからだ。

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