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目の調子が悪い私は、 再びnoteを書くことにした


もう何ヶ月も、目の調子が悪い。しかも片目だけ。

ものもらいが再発を繰り返していた上に、軽度のウィルス性結膜炎になっていたので、もともとコンディションは良くなかった。
それに加えて、昨年は体調を壊して入院したのがまずかったらしい。身体の免疫力が急降下し、腫れ上がった目はなかなか治らない。


複数の眼科で、「腫れが引くまではできるだけコンタクトレンズの着用は避けなさい」と言われたこともあり、仕事など外出するときはだいたい裸眼で過ごしている。


メガネをかければ良い話なのだけど、もともと、そこまで視力が悪くないこともあり、メガネをかける習慣がない。
しかも長時間メガネをかけると、少し弱めの度数で作ったメガネであっても頭痛がするのだ。
パソコンやテレビ、本を読んでいても、途中から頭痛がして集中できなくなってしまう。


そんなこんなで裸眼で生活していたら、あんまり細かいところまで見えていないのも悪くないなと思えてきた。

例えば、ちょっと散歩にでかけたとき。
セミとか道端の植物を見たとき、ときどき鮮明に見えすぎてギョッとしていたのが、今は全体像がぼんやり見えるだけなので夏がきたな〜とか、綺麗だな〜と呑気に構えている。

鏡に映る自分を見ても、細かいシミやホクロはそれほど気にならない。
それが美意識の欠如と言われれば、耳が痛いの一言に尽きるけれど。


あんまり良い例が浮かばないけれど、「他の人は気にしていないけれど、自分は気になる」という類のものが減ったような気がする。


もちろん、細かい文字だったり、駅の電光掲示板といったものがはっきり見えなくて困るときだってある。
ただ、そういうときはメガネを一時的にかければ良い。

見えづらい、という選択肢を持つのも悪くないな、なんてことを考えている。



人生も同じかもしれない。
自分の今と未来、そして過去や失敗を見つめ、向き合うというのは結構エネルギーが必要だ。
そしてやっぱり、いろんなことと向き合うと、得るものも大きい分、疲れも溜まる。


最近は仕事して、勉強して、ときどき人と話をして過ごしている。
そのどれにおいても「なぜそれをするのか」「どうしてそう考えるのか」「何が必要か」みたいなことばかり考えている気がする。
あまりに考えすぎて、最近は自分の言葉がどれもこれも妙に理屈っぽくていやになったりする日もある。


あえて突き詰めて考えると、疲れてしまうし、息切れしてしまう。
少し視点を変えることで良い考えが生まれることがあるのと同様に、考えない時間を少しばかり作ったり、考えるとしてもぼんやり思考するくらいの時間も必要なのだろう。


かといって、あんまり目を背けていると、それはそれで物事が進まなかったり、そのせいで自己嫌悪に陥ってしまうので、加減が大切でもある。



このnoteは、去年の11月〜今年の1月までの3ヶ月、よく更新していた。
noteから離れて約半年。近頃は日々に追われ、感情の波に溺れ、書くことも、ほかの人の記事を読むことも減っていた。


けれど、日常から少し距離を取り、俯瞰するためにも毎日とは言わないけれどまた日記や雑記を書いたり、読んだりするのも良いかもしれない。

文章の書き方は、半年ほどで全て忘れてしまったし、有益なことは書けないかもしれない。
けれど、せめて人を傷つけることのない投稿ができたらなと思う4連休最終日。



ご覧いただきありがとうございます。 また気分が向いたら、ぜひのぞきにいらしてくださいね。 今は大学院進学を目指して、働きながら勉強中です。サポートいただけたらとても嬉しいです。