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『ウェブ・アフリカ』vol.2(6/2020)のライナー・ノーツ

先週の土曜、3ヶ月ぶりに「オトナのための文章教室」を再開しました。今回は何だか、久しぶりに顔を合わせて、話せるという歓び(?)が先に立っているようでした。「いま書きたいこと」という、テーマはあってないようなもので自由な回だったんですが、「自由」というのには難しいところもあり、次回からはまた何か"仕掛け"を考えようと思っています(初めて鎌倉でやる7/4は引き続き「いま書きたいこと」でやります、参加者もう少しだけ募集中)。

それにしても、この3ヶ月間、長かった! そしてもう2020年も半年が過ぎようとしています。何という半年だったんだろう。こんな経験は生まれて初めてです(いま生きてる人たちは皆、そうでしょうね)。

さて、先週は新刊『音を聴くひと』の特集でしたが、今週は『ウェブ・アフリカ』vol.2(6/2020)の特集です。

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vol.1は、2018年4月だったので、約2年ぶり。

リンクしてあるページから、メール・アドレス1本でご登録いただくだけで(それ以外の名前とか連絡先とか一切不要です)、インターネット環境があればどなたでも読むことができます。

登録制にしたのは「ぜひ次回もお知らせしたい」から、というくらいのことです。送られてくるメールには返信する必要ありませんので(したくなったら、ぜひどうぞ)、お気軽に。

『ウェブ・アフリカ』は、雑誌『アフリカ』のバックナンバーに載っている作品を、ピック・アップして再編集して、ウェブ上で無料でお読みいただこう、という企画です。

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オール・モノクロ印刷の『アフリカ』に対して、『ウェブ・アフリカ』はカラーだというのも、ウリのひとつ。表紙の切り絵も、元はカラーだったりして。──今回も、『アフリカ』の表紙や裏表紙、目次のページなどで使った切り絵を、ふんだんに載せています。

目次に沿って、ザッとご紹介してみましょう。

髙城青「アフリカキカクのイメージ」

『アフリカ』第24号(2015年1月号)より。絵本『からすのチーズ』をつくった際、アフリカキカクのシンボルマークをつくろうという話になり(晶文社の犀のマークみたいに?)、青さんにつくってもらった。

『音を聴くひと』の表紙にも、もちろん出てきています。

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「アフリカキカクのイメージ」は、その時に交わしたメールのやりとりから、青さんの書いたものを抜き出したもの。メールの文章をそのまま使ってしまうこともある『アフリカ』の編集者、なのでした。

下窪俊哉「はじめに──私たちはどこに向かって書いているのか」

これは書き下ろし。新型ウイルスのことをどう書こうか、ああ書いてみたり、こう書いてみたりした結果、「私たちはどこに向かって書いているのか」ということが、いろいろと感じられてきた。ここで言う「私たち」というのは、『アフリカ』に書く人というよりは、いま、この社会で、書いている人を漠然と指している、と自分では思っています。

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いつも『アフリカ』の目次付近にある"お遊び"のページも、控えめながら、存在しています。

芦原陽子「私たちの梅核期」

『アフリカ』第28号(2018年4月号)のさいごのあたりに掲載。ここで、久しぶりに(雑誌『アフリカ』に)アフリカ大陸が登場しています。

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自身の体調不良による不安と、森友学園問題に揺れる国会中継を横目に、刺々しいことが多かった冬から春へ。ある日、それまで通ったことのなかった、"道"を見つけます。

今いる道が嫌なら、違う道を探せばいい──。

今回はぜひこのエッセイから、読んでいただこう、と、冒頭に載せています。

柴田大輔「牛久沼のほとりから」(部分)

これは『アフリカ』最新号(第30号/2020年2月号)から。柴田さんによる牛久沼の写真を、ぜひカラーでもご覧いただきたくて。ついでに、と言ったら柴田さんに失礼かもしれませんが、エッセイの一部分も抜粋して載せています。

片山絢也「矢流」

『アフリカ』第9号(2009年7月号)より。これは今回、『ウェブ・アフリカ』をつくるにあたって、まず最初に、載せておきたいと思った作品でした。

読み始めると、ある病院に、「僕」が、約20年ぶり(?)に、母親に会いに来ています。

この、ことば少なに書かれる短い小説の、素晴らしさをどう言えばよいだろう。とりあえずは、ぜひ読んでみてください。

犬飼愛生「マザー・アイ・ラッシュ」

『アフリカ』第16号(2012年9月号)掲載。2018年の詩集『stork mark』には載っていない、本人に聞いたところ、うっかり入れ損なった(?)作品だそう。ぼくは好きな作品で、──と書いておいて、さてこの詩のことを、どうやってご紹介しよう?

奮闘する「母」が、ある(真夏の)夜、「静か」な時間に迷い込んできています。そこには、「母」に付きまとってくる様々なことばが、ざわめいている。そんな中に、我が子の、まぶしくて仕方のない「ことばのプール」(「息子の発見」という詩に出てくる印象的なことば)もある。うるさくつきまとうざわめきを胸に、詩人はしかしもう1歩、前に出ます。

寝ないで過ごす夜には
母たちは名を取り戻す
お母さんや、妻や、◯◯くんママという呼び名も
寝静まって
誰でもなく、なりたい

『アフリカ』は、ある時から"日常を旅する雑誌"なんて、キャッチフレーズを思いついて、そう呼ぶことにしたのですけど(あまりそれにこだわっているわけではないのですが)、それはじつは、"日常"から少しズレたところに行く、ということなのだ、といった感じを、この詩からも感じます。

髙城青「それだけで世界がまわるなら〜堂々と無職〜」

『アフリカ』第19号(2013年5月号)より。第13号に始まって、延々と(現在まで9年)続いてきている髙城青のエッセイ漫画より、「堂々と無職」という副題のついた一編を載せました。

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新型ウイルスの騒ぎが始まって以降、自分にとっては仕事をして、暮らしてゆくことの困難が一気に突きつけられたというのが最も深刻な問題で、そんな時、この「堂々と無職」が、ふと思い出されました。

『音を聴くひと』の「あとがき」にも出てきますが、ぼくには「堂々と無職」でいた経験(?)が幾度かあり、それをこうやって漫画にして笑い飛ばして、またしんみりと語ってくれる作品を受け取って、何だかとても救われた気になったのを覚えています。

下窪俊哉「ことばのワークショップ」

『アフリカ』第24号(2015年1月号)掲載。震災後に出会った吉祥寺美術学院での、"ことば"をめぐる様々なセッションと、そこに至るまでの、自分の中にあることばの変遷、亡き作家・小川国夫さんから受け取った"ことば"のバトンや、知的障害の人たちとの付き合いから思い描いた「ことばはどこからくるか」のスケッチ、etc. これは当時、市川のダイバーシティ工房で「ことばのワークショップ」を始めるにあたって、思いつくことを書きなぐっておいたエッセイです。

その試行錯誤は(もちろん!)現在の「オトナのための文章教室」に生かされているわけです。その「文章教室」のことも、そのうちじっくり書きたいと思っています。どんな文章でもそうなんでしょうけど、自分だけで考えたことじゃないからね。書かなければ、と思っています。

中村茜「差異を通して世界をつかむ」

『アフリカ』第28号(2018年4月号)より。中村茜さんは「鬼の研究」にまつわる話を、2015年頃から『アフリカ』に書いていましたが、この時から、知的障害のある息子さんとの暮らしを、少しずつ、書き始めました。これはその、印象深い最初の文章でした。

"ことば"とは、何なのか。"コミュニケーション"とは、どんなものなのか。この社会の中で、人が生きるということは、どういうことなのか。編集者であるぼくにとっても、おおきな、おおきな人生の課題です。そんなことに、「知的障害のあるこども」とされる彼が、果敢に切り込んでゆく。──なんて、そんなことをぼくは言ってみたいとずっと思っています。彼の姿の後ろに、ぼくはたくさんの人の影を見ています。その中には、もちろん自分も、いるわけですが。

ぼくにはほとんど、彼を助けることはできない、彼の家族を助けることもできないでしょう、ただ、たまに付き合うことしかできないのですが、ぼくはささやかながら、そうした小さな声のようなエッセイを、こうやって置いておきたいと思います。

中村広子「ゴゥワの実る庭(四)」

『アフリカ』第13号(2011年12月号)掲載。第10号(2010年11月号)に始まり、第17号(2012年11月号)で完結した『ゴゥワの実る庭』の、これは第4回です。

『音を聴くひと』には『アフリカ』の編集後記がこれまでの分を全て収録してありますが、『ゴゥワの実る庭』が最終回を迎えた2012年11月号には、そのことについて書いてある。

 八回にわたって連載してきた『ゴゥワの実る庭』が、今号で完結。インドを旅している「私」が、バラナシからガヤに向かい、ガヤを出てデリーに引き返すまでが描かれている旅の記録で、濃縮された数日間になっている。

この第4回は、「ゴゥワの実る庭」のあるディディジの家に着くところから始まる、とても印象的な回でした。

さて、その『ゴゥワの実る庭』ですが、アフリカキカクで1冊の本にまとめようと数年前からノロノロ、モタモタと作業は行われており、いよいよこれから出版される予定です。例によってご期待はせずに(いや、これはぜひしてください)お待ちください。

髙城青「18:22の、」

『アフリカ』第12号(2011年10月号)に載っている、青さんの作品の中でも、ちょっと異質な作品。『アフリカ』第20号(2013年7月号)に寄せてもらった短文「一度だけのゲストのつもりで」によると、

(『アフリカ』には)初めは字を書いていたんだけど、今は何故か漫画ばかあり描かせてもらっている。「何故か」って本当は「字ばっかり書くのんイヤ。漫画描かせて。」とわたしが言ったからで、編集人はすんなり「いいよ。」と言った。彼はだいたいいつもこんな感じで「イラストに短い雑記を付けたい。」「いいよ。」「イラストと詩を書きたい。」「いいよ。」である。思い付いたことを誌面で実験的にやらせてもらっているのだ。

とまあそんな感じだそうですが、この「18:22の、」は、「イラストに詩」ですかね? 「イラストに雑記」のような気もします。その、両方かな。

通勤(たぶん通勤)電車の中で観察する女性たちの「手」をめぐる、ささやかな詩(あるいは雑記)です。この作品も、なんか、いま読むために書かれたんじゃないか? という気が、少しくらいしません?

守安涼「なつの蝶」

『アフリカ』2007年10月号(まだ号数を明記してなかった頃)掲載。今回の『ウェブ・アフリカ』では、一番古い作品です。

『アフリカ』の装幀者である守安くんは、現在は岡山の出版社で編集者として、いや「デザイナーかもしれない」(『アフリカ』第25号/2015年7月号より)とか言いながら、マルチな才能を発揮する出版人として活躍しているのですが、かつてはこういう洒落た短編小説を書いて、われわれを愉しませてくれていたんです。

これはその、ほんの一例。

田島凪「雑木林」

これは『アフリカ』のどこに載っている? 載ってません。これが初出。全て既発の作品だけ、というのもツマラナイような気がして。それに、現在進行形で営まれている雑誌のウェブ版なので、一番新しい号に書いているメンバーによる、何らかの新作を出したいと考えて、ふと、田島さんが普段、撮りためているらしい雑木林の写真が思い出されました。

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Twitterにアップしてあった写真と、覚書のようなことばを拾い集めて構成して、あらたに田島さん本人から送られてきた2018年秋から最新の写真までを足したり、引いたりして、とりあえずこのようなかたちに仕上げました。

ぼくは以前から定点観測ということにたいへん興味があり、それをさり気なく続けている田島さんの「雑木林」には、ずっと親しみを感じていました。

季節の移ろいと共に、ゆっくり、ゆっくりご覧ください。

見てゆくと、やがて、新型ウイルスに世界が揺れる季節もやってきます。が、この写真の中に読み取れる(感じ取れる)ことは、いったいどんなことでしょうか?

犬飼愛生「きらめく夜のこと、そのあとのこと」

書き下ろしのエッセイ。2020年の3月上旬、大阪・北新地で友人と待ち合わせをしているシーンから始まります。

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その後、緊急事態宣言が出て、巻き起こったこの社会の激動の季節が、犬飼さんのパーソナルな視野でもって描かれています。

これは4月末の時点で、書き上げてあったもの。それから夏にかけての、いろんなことは、また『アフリカ』の次号で? もちろんそれは犬飼さんだけの課題じゃない。自分なら、何を書くか、どう書くか。そんなことを問いながら…

余韻を残しつつ、また。

(つづく)

今月、完成したばかりの下窪俊哉の作品集『音を聴くひと』(アフリカキカク)、のんびり発売中。

あの大陸とは“あまり”関係がない道草の家のプライベート・プレス『アフリカ』。読む人ひとりひとりの傍にいて、ボソボソ語りかけてくれるような雑誌です(たぶん)。その最新号(vol.30/2020年2月号)も、相変わらずボチボチ販売中。


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