小さな「農」をひろげてゆくために〜ある小冊子を見ながら
先日、港ノ マチノヒさんから、こんな小冊子をいただいた。
表紙には、『ヨコハマ 旧上瀬谷通信施設跡地 「耕して食べる」を楽しむための 市民農園にしたら どうでしょう』とあります。
太平洋戦争の後、アメリカの土地になっていた通称"上瀬谷通信施設跡地"、2015年に返還され、その後、テーマパーク(レジャーランド)にする計画がニュースになっていましたが、現在は白紙になっているのだそうです。その土地、約125ヘクタール、この小冊子ではその広さを「東京ドーム27個分」と(イラストと文章で)表現しています。
テーマパーク(レジャーランド)をつくろうという計画については、まあ時代遅れなんでしょう、感覚的にわかりますけど、実際の経営的にも、厳しいという判断があったようです。
そこで、港ノ マチノヒさんが提案されているのは、「農」をテーマにしたテーマパーク(?)にするのはどうか? ということ。
近年、ご自身で実践されている小さな「農」の経験や、森永卓郎『「マイクロ農業」のすすめ』(農山漁村文化協会)という本の紹介から、「半農半X」を推奨している。
その「半農半X」ということばは、綾部(京都府)の塩見直紀さんがつくったことばで、星川淳さんの「半農半著」の「著」を括弧に入れて「X」としたもの。つまり「X」には何が入ってもいいわけで、かつて塩見さんの話を聞いた時には「天職」と言っていましたが、その「職」はひとつである必要もない。自由度の高い(生き方の)提唱だと思っています。
それを支える小さな「農」が要る、というのは、綾部に暮らしている塩見さんにとってはごく自然なことでもありました。家を借りる時に、「一軒家、駐車場と小さな田んぼつき」なんていう物件も珍しくはないというところもあるんです、なんて言ってたっけ。
問題は、都市に暮らす人が、どのようにしてその小さな「農」をもつか、ということ。
横浜といえば、よく知らない人には、例の「港町」というイメージが強いかもしれませんけど(そういえば「横浜」という名前の由来を知りませんが…)、実際にはとても広い市で、海に面してないところもたくさんあるんですね、じつは「畑」は横浜のイメージとして、合っているような気も(私は)します。
ただこの小冊子で提唱されているのは、「農業」をしようというのではなく、小さな「農」を実践する人を増やそう、ということ。
こんな感じで優しく語りかけてきています。
そんなふうにきれいにゆくかどうかはわからない。ここに出てくるいろんな言い方も、このアイデアを推し進めてゆけば変わるかもしれない。でも、ここに書かれていることの先にある未来の可能性には、とても魅力を感じています。「ちょっと大変だけど」の「ちょっと」を積み重ねてゆけば、何かよい未来がひらけるような気もして。それに、個人に語りかける部分と、社会に働きかけようとする部分、両方あるのが重要です(最近、「よむ会」でそういうことを話しています)。
先週、「道草の家の文章教室」を鎌倉で(いつものゲストハウス彩で)やった後、この小冊子を見せて、彩のオーナー・武士殿と少し話していましたが、この冊子をきっかけに、いろいろ語り合うことができそうだ、と思いました。
「農業」を仕事にしてきた方によっては、「畑をやるのは大変だよ」なんて話す方もいらっしゃる。
でも、そこで私は思い出すんですけど、私の(父方の)祖父母は、商店をやりながら隣の土地で畑を耕し、野菜をどっさり採っていました。遊びにゆくと、食べきれないくらい持たせてくれていたんです。大根、白菜、人参、ナス、トマト、カボチャ、ジャガイモ、ニガゴリ(ゴーヤ)、などなど、秋には柿、夏にはスイカも、野菜の大部分は自給自足だったのではないかと思う。鶏を飼っている家も多かったのではないかとも思います。
そういうのは田舎の話で、私の家族が普段、暮らしていた町の暮らしにはなかったことですが、彼らが「大変だ」と感じて畑をやっていたというふうには、孫の私には感じられなかった。息子夫婦と孫たちが遊びに来て、帰る前には嬉々として畑に連れてゆき、あれを持って帰れ、これも持って帰れ、と言うんです。
そういう土地を持たず、土を耕すことも(42年生きてきて)殆どしてこなかった私に、彼らの営みをいますぐ継ぐのは無理です。が、いまになって急に、どうして畑のことを(祖父母が生きていて元気だった頃に)聞いておかなかったのか、と思う気持ちもわいてきています。
ところで、いま、住んでいる家に引っ越してきた後、私はよく眠れるようになりました。大人になってからは、ずっと、よく眠れなかったのですが、なぜか、この家ではよく眠れる。その原因はいろいろ考えられるんですが、ひとつには音環境、ひとつには土の気配があるんじゃないかとも考えていて。
そんなこともふと、思ったりして。