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ことばの源泉

朝、4時に目をさまし、自室のある2階へゆこうとすると、開け放してある窓から、湧き上がっている蝉の声がなだれ込んできているように聴こえる。

この季節、その時間には外はすでに明るいが、まだ日は上っていなくて、少し涼しい。

ぼくの部屋には相変わらずエアコンがなくて、扇風機に頼っているのだが、最近の昼間は熱風を吹き荒らすことになるので、次第にぼーっとしてきて仕事にならない。朝のうちにひと仕事して、暑くなると少し休む、あるいはエアコンの効いている1階に降りてやるか、エアコンの効いたどこかへ出かけるしかない。

さて、妻子が起きてくるまでの数時間は、自分1人だけの時間だ。その時間に「朝のページ」を書いていると、何となくだが、気分がいい。

夏でも起きるとお湯を沸かし、白湯を飲むことから始める。口に含みながら、ペンを持つ。そのことだけはもう4年以上、毎日、毎日続けている。

何のためでもない。というより、何のためになるのかは、常にわかっていない。と言うべきだろう。ただ、自分だけの場所を持つことは、誰でもそうかどうかはわからないが、ぼくが生きてゆくうえでは、たいへん重要なことである。

自分だけの場所、時間というのは、じつはけっこう持つことの難しいものかもしれない。ずっとひとりきりであるなら、そんなことがわからない。ずっと誰かと一緒にいるなら、またわからなくなる。

自分だけの場所というのは、他のどこでもない、自分の中にあるものなんだろう。それをありありと、よく感じられるようになるには、それなりの鍛錬がいるのかもしれない。

例えば、音楽を受け止める際の気持ちよさとか、もっと身体の奥の方に寄ってゆくと、性的な気持ちよさとか、それらが、すぐ簡単に得られるものではないのと同じで、「イメージする」ということがとても大切なことになる。

イメージすることは、ただの空想ではなくて、身体に何かを喚び起させる具体的な媒介となる。

また楽器やオーディオと同じで、鳴らしているうちにいい感じの音になってくるということもある。

「自分だけの場所」も、そこへ通い、何かを働き続けることで、いい感じになってくる。

秘密の場所、だけれど、自分自身にとっても、常にいられる場所ではない。たまに、戻ってゆける場。他人は入ってきてはいけない。入ってきてよいとしたら、おそらく、ぼくが死んだ後、覚悟を決められた人だけだ。その人はおそらく死者となったぼくのことを誰よりも深く知りたいと思っている人だろうから、ここに書いておくけれど、許す。

しかしそんなことを考えて「自分だけの場所」へゆくのではない。

ぼくは、ことばというものの源泉を、そこに見出しているようなのだ。

(つづく)

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