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朝寝の世界

(「「何もしたくない」という声」のつづき)

朝、自然と目をさます、ということの気持ちよさが、こどもの頃には大好きだった。

平日は学校があり、むりやり起こされるのだった。当時、土曜日は午前中だけ学校があった。ダラダラと寝ていられるのは日曜だけだ。週1回のおたのしみ、ということになる。

目をさましても、いつまでも布団の中に潜っている。布団の中の、狭い空間の中に、自分だけの世界があった。そこにはさまざまな空想があり、ちょっとした物語もあったような気がする。

朝、目をさまして、嬉しい、という気持ちがわき上がる。そんな歓びが他にあるだろうか。

ぼくは長年、自分のことを「朝が苦手」と考えていたのだが、よくよく考えてみると、「むりして起きなければならない」ことが苦手なのであって、朝が嫌いだったわけじゃない。

日が暮れて、夜になったら、寝る、という暮らしをしていたら、夜明けと共に目がさめるだろうと思う。

しかし実際にはこの社会は、ドキドキワクワクしてみたり、ガッカリしてみたりに忙しくて、寝て、起きて、食べて、ということにあまり集中できていないような感じだ。

朝の時間は、じつは、ゆったりとしている。──最近のぼくは、そう感じる。

時間の流れるスピードが一定していない(のではないか)ということは、いろんな人が言ったり書いたりしていることだと思うが、ぼくの感じ方としては、朝の時間はゆったりしている。

朝の時間には、聴こえてくるものが、たくさんあるような気もしている。夢も、たいていは朝方に存在している。今朝もぼくは夢をみた。少し会ってない人が出てきた。元気かな、と思う。目をさましたらさましたで、聴こえてくる声がある。朝は、夢の中にいても、外にいても、聴覚が敏感になる。

(つづく)

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