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こわい夏

今年は梅雨が長いが、そろそろ、夏らしくなろうとしているのを感じる。ぼくは若い頃は夏が嫌いだったが、最近は、そうでもない。ひとの感じ方というのも、移ろい変わってくるものですね。逆に冬は大好きだったのだが、最近はそれほどでもなくなってきている(ような気がする)。ようするに、どうでもよくなってきたのかもしれない。

昨年の夏は息子を連れて、週2〜3回もプールに通ったのだったが、今年はそれができない。小学生になった瞬間に新型ウイルスの騒ぎに巻き込まれて、夏休みも短い。小学1年生の夏休みだ。本人にはそれを特別視するような意識はないだろう。しかし親のぼくは考えなくもない。何か、あんな出来事があったねえ、と思い出せるようなことがあるといい、と考える。

何か、贅沢なことである必要はない。お金がたくさんあるわけではないから、そもそも贅沢はできない。ちょっと、行ったことのない場所に出かけるとか。ただ、お金を使って買い物をするといったことだけじゃないことがいい。その間の、時間を、じっくり染み込ませるように味わえたらいい。

たった1日、2日のことでいい。

そんなことを考えていたら、自分が小学生だった頃の夏休み、父の田舎に1週間くらいひとりで泊まって、親戚のお兄ちゃんと昆虫採集に行ったり、暑い中、扇風機にあたってひたすらぼーっとしていたような時間が思い出された。そこは薩摩半島の南部にある山間部で、町の子だったぼくには、とっても魅力のある場所だった。

そこの子らにしてみれば、町に住んでいるぼくを羨ましいと思う気持ちがあったかもしれない。しかしこちらから見れば、彼らはいろんなことができて、自分にはできない、という負い目があった。つまり町ではいろんなものが用意されていて、それで遊ぶというのでいいが、田舎ではそうはゆかない、公園があるといってもそれはただの広場であり、遊具があるわけでもないから、そこでどんなふうに遊ぶかというのには技術(?)がいるわけだ。

自転車の後ろに乗せてもらって、昆虫を採りに行ったのは主にみかん畑だった。茶畑の間を通る道を自転車でビューッと走り抜けて行った。暑いのも、自転車に乗せられて走るとその瞬間だけは涼しくなる。お目当のところへ行き、覗くと、クワガタとカナブンがウジャウジャいた。彼らをごっそり捕まえて帰り、われわれはそれをどうしたのだったか… そんなことよりよく覚えているのは、湧き水が出ているところがあってその水を飲んだことだ。その頃はなぜか、喉が乾いて、乾いてしょうがなかった。

そこは遠い昔、どこからか来た人たちが開拓した土地なのだろう。そうでなければ、なぜそこに、取り残されたような小さな集落があり、人がクチャッと寄り添うように暮らしているのか。──ぼくの祖先も、きっとその中にいたのだろう。

そこにゆくと、いろんなものが感じられた、と思う。町では感じられないことが感じられたというか… それは幼い自分には、嬉しいと同時に、ちょっとこわいような気持ちを抱かせもした。

その、こわい、という感情を、心の中で蘇らせてみる。それは何か、いまとなっては、とても愛おしいもののように感じられる。

(つづく)

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