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吃音の"わからなさ"に出会った頃のこと
昨日のつづき。じつは毎日が「昨日のつづき」なんですけどね。
"立ち返る"という仕事、今日は、10数年前に吃音のセルフヘルプグループ(言友会)と出会って、はじめて"吃音の友達"ができた頃に書いた吃音関連エッセイに取り組んでいた。
吃音のことは、おそらく「説明」が難しかったのだろう、あっちを書いたり、こっちを書いたり、試行錯誤の跡が生々しく残っている。一部を除いて大半が未発表の、というより、書きなぐっているような原稿の山だ。この「ああでもない、こうでもない」が、その後、小説「吃る街」(『アフリカ』初期の頃に連載、ただし未完成)につながっていったのだと思うと、ここにも何かヒントがありそうな気がしながら読んだ。
さて、ここでどっしり腰を据えて吃音のことを書こう! とはならないのが、いまの状況で、いまはそうしたいのをぐっとこらえて、"立ち返る"という仕事を続けよう。(もちろん、書くこともやりますよ、自分、焦るなよ、ということ)
自分の中で渦巻いているいろんな気持ちを、自分というちいさな事業を営んでいる自分が、調整して、監督している。
ぼくは生粋のドモリスト(吃音者)だが、10数年前に気づいたのは、吃音で自分がどんなことに困るか、どんなことが嫌かについてはものすごく詳しかったが、吃音が一体どんなものだろうということや、吃音がもつ"わからなさ"については無知だった、ということだった。
つまり、その頃、ようやく(その探求の)入り口に立ったのだった。
ぼくという書き手は、"わからなさ"にぶち当たると燃える。吃音さえなければ…と願ったことも度々あったが、書く人としてのぼくは燃えていた。そして、なければいいのに、と思ったそのことにじつは自分は支えられていた。
(つづく)
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「道草の家・ことのは山房」のトップ・ページに置いてある"日めくりカレンダー"は、1日めくって、8月23日。今日は、「花紙」の話。
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