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〈語り〉に魅せられて

8月も終わる。春からのことを思い返せば、「なんという8月だったんだろう!」という感慨はない。世の中的にも個人的にも、相変わらず問題だらけであり、世間では何が問題なのかすらよくわからないまま(よく平気ですね、この国の為政者たち)、チンタラと過ぎていった1ヶ月だった。

とにかく暑かった、蒸した、グッタリしていた、夏にはなぜ長めの休みがあるのかということを再び考えざるを得なかった、というか考えるのも面倒だった、ダラダラしたい気分だった、etc. まあ何でもいいやね。

ぼくが企画・編集・デザインして、かれこれ14年ほど続けている雑誌『アフリカ』(あの巨大な大陸とはあんまり関係のない個人的な雑誌)も、今月、進める予定だったが、自分自身の"ダラダラ"のおかげでまた少し延びてしまった。それでも送られてくる原稿はあり、嬉しい、少しずつ、くり返し読んで、じわじわ手紙やメールを書いているところです(返事ないなあと思っている方は少しお待ちください、じわじわやってます、今夜はそれを少し休んで週1更新の「道草のススメ」を書いてしまいます)。

『アフリカ』にかんしては、「そんなことまでしているのか!」と言われることがあるんですけど、最初からずっとこんな感じでやってきているので、いまさら止められない。いまさら、手抜きをしようと思っても、できない。

手間をかける、時間をかける、というのは、しかし、いいもんですよ。

いまの人たちにはあまりありがたがられてないような感じもありますけど。もっと大事にした方がいい。時間をかけて、手間をかけることが、何かを生むということです。

(なんかこんな説教じみたことを言い出したら、歳をとったという感じがしますね? いやはや)

さて、今月はこの本を久しぶりに再読した。急に、読みたくなって。かなり時間をかけて読んだ。半月はかけた。もちろんその間、この本だけを読んでいたわけではないのですが。

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片岡義男『花なら紅く』(角川文庫・1993年)、「胸のふくらみがこう語った」「紀子が三人いた夏」の2篇を収録してある。

女性の"性"をめぐる2篇、と言っていい。前者は1人の男性の写真家を通した"胸のふくらみ"にかんする小論であり、後者は小津安二郎の3つの映画『晩春』『麦秋』『東京物語』を通して昭和20年代に女性の"性"がどのように扱われていたかを考察するものだ。それを"小説"の方法で書いている。

この2篇は、どちらも、1人の男と1人の女による〈語り〉の小説であり、登場する(それぞれ)2人は、ページをめくってゆく間、ずーっと語り合っている。

どこまでいっても、語ることが全てである。

たとえば「胸のふくらみがこう語った」で語り合っている2人はたいへん親密な関係のようだが、たとえば女性の側がいますぐにでも自分の胸を見せてあげましょうか? などと言っても彼は、ちょっとまって、まだこの話には続きがあって… と〈語り〉に集中して、そのこと(語ること)から離れたがらない。

語るにつれて深まってゆく関心は、女性の乳房というものの造形であり、そこへ向かう眼差しであり、その"ふくらみ"の中にある性的な(その女性自身がからだの中に宿している)感覚的なことであり、男性の側はそれを自分のものにしたいと考えるより、「いいなあ」と思う、そして、ついには「女性になりたい」と願って実行に移している男性(というかもうそのひとは"女性"なのだ)まで登場する。

片岡義男さんのその頃の小説には、よく、以前は男性だったがいまは女性である彼女とか、その逆もあったかな、そういうひとが出てきていた。後年のインタビューなどを読むと、その(女性でもあり男性でもあるような)ひとたちをどうことばで表現すればいいか、という実験でもあったようだ。しかしぼくにはそれが、普段"私たち"が、自分は男性でしかないとか女性でしかないと感じているとしたら、それって、ツマラナイじゃないか? というふうな問いになって聞こえていた。

そんなことを思いながら「紀子が三人いた夏」を読み出すと、三人の"紀子"を演じた原節子と、その映画を撮った監督の小津安二郎と彼の仕事仲間たちが、その時代の女性の"性"のゆくえをどう捉えて、どう描こうとしていたかという謎を、語り合う2人が出てくる。

印象深いのは、「性を使う」という表現が、くり返し出てくることだ。何に対して使うのかというと、"社会"に対して使う。たとえば女性なら、夫となる男性に対して使うというより、社会に対して使う、あるいは、使わないという判断をしなければならない。

たとえば、女性が結婚して「片付く」という表現について語る場面がたびたびあるが、ぼくにとっては、それよりも「性を使う」という表現が、ほんとうに面白い。

最後の方で、男性の語り手である「僕」は、こう言う。

性についてなにもわかっていない状態とは、自分という個について、なにもわかっていない状態だ。

(「胸のふくらみがこう語った」の男性は「彼」であり、「紀子が三人いた夏」の男性は「僕」だが、「彼」も「僕」のようであり、「僕」も「彼」のようである。)

性は、個である。と、まあそういうわけだ。そしてぼくの中には、その考えに、いま、とても共鳴している部分がある。ジンジン響いている。

そのことには、ぼくもそのうち"小説"の方法で書いて、応えてみたい。

そのこととはまた別に、〈語り〉の方法に魅せられているところもあり、そのことは、先日の「道草の家の文章教室」でも少し話した。

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同じ片岡義男さんの角川文庫に『個人的な雑誌』と題された2冊があり、その「1」の方を、ぼくは"小説"といったものを書き始めた頃(1999年か)に読んで、たいへん影響を受けた。じつは、その『個人的な雑誌1』が、片岡義男という書き手に注目し始めた最初の本だった。

そこに書かれていることは、「本を読む」ことにかんするエッセイなのだが、それを〈インタビュー〉というかたちで書いてある。インタビューの文字起こしであるなら、聞き手の名前が載るだろうし(そこには誰の名前もない)、その前に、読めばわかった、それは少なくともある程度までは架空のインタビューなのだ。

そういえば、思い出したのだけれど、初めて小説を書こうとした時に、自分の頭の中に浮かび上がった〈語り〉を書き起こすことから始めたのだった。

そうだ、あの続きを、またやってみよう。──なんて、そんなことを考えもした夏だった。

(つづく)

道草の家の文章教室、次回は9/5(土)に鎌倉で、その次は9/26(土)に横浜でひらきます。テーマ「こぼれる」ですが、「こぼれる」を頭の隅に置いて書きたいことを書きたいように書いてくださって結構です。初参加の方も大歓迎! お気軽に。(事前にお申し込みください、詳しくはこちらから)

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