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五代友厚に関する誤解 開拓使官有物払い下げ事件を検証する その1

映画「天外者(てんがらもん)」、ついに公開になりました。

大阪経済界の礎を築いた、五代友厚。作品の中では、その発想のスケールの大きさ、行動力と周囲の英雄たちとの絆が描かれます。五代友厚の人間的魅力を、存分に堪能できる映画になっています。

では、そんな五代友厚の知名度がいまひとつだったのは、なぜなのでしょうか。一度、このnoteで触れています。

五代友厚は、高校の日本史の教科書にどのように書かれているか。再度ここで引用します。

開拓使の廃止を前に、長官の黒田清隆が同じ薩摩出身の政商五代友厚に、約2000万円を投じた事業を38万円余という安い価格で払い下げようとして問題となった。(清水書院 『高等学校日本史B 新訂版』 令和2年2月15日 第3版発行)

おや? 別な教科書はどうでしょう

開拓使長官黒田清隆は設置以来1400万円を投じた事業を39万円の無利息30年賦で同じ薩摩出身の五代友厚らに払い下げようとし、藩閥と政商の結託と批判された。(三省堂『詳解日本史B』)

んん? もう一つ見てみましょう。

開拓使の長官黒田清隆が財政危機打開のため、1881年に官有物を安い価格で同じ薩摩出身の五代友厚らに払い下げようとしたところ、藩閥の横暴だとして激しい攻撃を受け、払い下げは中止された。(東京書籍『新選日本史B』)

あれれ? 「天外者」をご覧になった皆さん、どう思われますか。五代友厚は、こんなことをしそうな人でしょうか?

地位か、名誉か、金か 
いや、大切なのは目的だ

一致しません。まるで人物像が一致しません。

ただこれだけを理由にしては、フィクションの方を信じるなんて、おかしいというお叱りを頂く可能性があります。以後、なぜ今にいたるまでこのような記述が日本史の教科書にあるのかを、史料を参照しながら見ていきたいと思います。

長くかかりますが、気が向いたらお付き合いください。おそらく2回に分けないと書き終えられません。また、字ばっかりでやたらと記事が長いので、ここで脱落していただいても大丈夫です。

関西貿易社の設立

1881年、五代友厚は関西貿易社という商社を大阪の経済人たちと共同出資により設立します。総勢、五代友厚を加えて22人。この会社は、当時国策として唱えられていた「直貿易論」を具体化するために作られた会社の1つです。

「直貿易論」とは、平たくいうと

外国との貿易をするには、外国商人と取引をしないといけない現状を変えるために、日本人が外国貿易商社を起こして、そこを経由して外国貿易をするように変えて、国益を守ろう

という理論です。

設立時に「関西貿易会社設立発起人決議」で、「関西支那輸出品に就て我貿易会社は利益を求るに非ず」と謳っています。五代友厚らしい、志を感じます。

さあ、事業に着手しようというところで、関西貿易社は思わぬ事件に巻き込まれます。

北海道開拓使官有物払下げ事件

まずは、明治時代の産業界についてざっくり説明します。明治の初め、西欧諸国に並ぶためには、国力をつけなくてはなりませんでした。

産業の分野では、民間任せにしては欧米の産業水準になかなか追いつかないので、明治政府は「殖産興業」という政策をとりました。国が自ら興した事業を軌道に乗せ、民間に払い下げていったのです。北海道開拓事業も、そんな殖産興業政策の1つでした。

1870年から北海道開拓使という官庁が行った開拓使事業は多岐に渡り、未開地の開拓・道路整備などの社会インフラ整備、牧場経営、ビールの醸造、缶詰の生産、海産物の商品化、炭坑の開発などが含まれています。

1881年に、北海道開拓使事業の払い下げが決まります。同年7月に詳細が決まりつつあった頃、東京横浜毎日新聞のスクープがありました。

「関西貿易商会の近状」記事の内容

そもそも、社名間違っとるやないかい!と早速ツッコミを入れたいところですが、そこには目を瞑るとして、東京横浜毎日新聞のスクープ内容はこうです。

(中略)「関西貿易商会は先に政府から資金を借りて大きな商社を設立しようと計画したけれども、その意図が実現しなかった。そこでこの商会の主だった諸氏は、意図を北海道に傾けて、開拓使と約定して、北海道の物産を一手に引き受け、およそ北海道の物産というものは、この商会の手を経なければ、決して北海道外に出てゆかないような仕組にしようとしている。(以下略)」ということである。私はこの情報が真実であるか虚偽であるかをまだ知らない。(中略)北海道の商業は全国人民の利害に関する事柄である。全国人民の利害は、わずか一商会の利害に代えることは出来ないので・・・(以下略)
  
『五代友厚伝記資料』第四巻史料177 (『新・五代友厚伝』より)


ホントかウソか分からない、と言っておきながら、あたかも仮説が真実であるかのように、この後2日続けて新聞紙上で論陣を張ります。

開拓使官有物払い下げ建議書の内容

一方、本当に北海道開拓使長官の黒田清隆が作成した建議書の内容は以下の通りです。なお、建議書の提出は7月21日、先ほどの新聞記事が出たのは7月26日です。建議書の内容をかいつまんで、以下に示します。

・北海道開拓使に勤務する官吏4人が退職して「北海社」という会社を設立するので、同社への開拓使官有物払い下げを許可してほしい(建議書の添付資料 「内願書」の内容)

・払い下げる官有物の一覧とその見積金額(船舶、牧場、ビール工場などを含んでいます)。

この建議書の内容は、7月28日に稟議に回され、8月1日に閣議決定されています。

あれ? 五代友厚の関西貿易社はどこに??

そう。黒田清隆が提出し、閣議決定された建議書の中には、関西貿易社の「か」の字も出てきません。東京横浜毎日新聞の記事は「誤報」だったのです。

建議書にその社名が全く出てこないのに、何故新聞報道される事になったのか。実は、同じく7月に、関西貿易社は岩内炭坑と厚岸官林の2つの払い下げを願い出ています。ではこの2つは建議書の払い下げ官有物一覧に入っていたのか?

入っていません。

つまり、東京横浜毎日新聞の記事にあるような、北海道の物産を一手に引き受け」ようとしていたのは開拓使に勤めていた官吏が設立する北海社であり、関西貿易社ではないと、明確に言える事になります。

東京横浜毎日新聞の記事が誤報であることは、その後別な新聞「郵便報知新聞」(同年9月5日付)、「朝野新聞」(同年9月6日、7日)の報道によって明らかになります。

ところが、ここで五代友厚本人は反論しないのです。このため、最初に東京横浜毎日新聞の報じた「誤報」が世の中の論調を支配していく流れになってしまったのです。

最初の新聞報道の難点

ここで、関西貿易社の設立趣旨を振り返ってみましょう。

当時国策として唱えられていた「直貿易論」を具体化するために作られた会社の1つ

つまり、あくまでも商社なわけですね。北海道開拓使官有物の払い下げを受けて、北海道の物産を一手に引き受ける・・・? ビールの製造や牧場経営、缶詰工場とかも?

いやいや、ありえないですよね。だって、同年の5月に設立されたばかりの、共同出資者22人で設立した小さな商社ですよ。そんな大きな事業できるでしょうか。

常識的に考えれば、そんな事はあり得ないだろうと予想がついたはずです。

五代友厚には、もしかして敵も多かったのでしょうかと思わされますが、この事件、そう単純ではありません。背景にあったのは、政局の混乱と自由民権運動の高まりです。その説明は、次の「五代友厚に関する誤解 開拓使官有物払い下げ事件を検証する その2」でします。

当初の疑問に戻ります。黒田清隆の書いた建議書の内容から、官有物の払い下げ先は「北海社」であることが明らかなのに、何故いまだに教科書では「政商五代友厚に払下げようとした」と書かれるのでしょうか。

合併示唆文書の存在

五代家から出た関連文書の中に、北海社と関西貿易社の合併を示唆するものがありました。内容を引用します。

今茲に甲乙の両者合併の実際を深案考思するに、内外の形勢に依て大に注意を要せざる可らさるの時なり、故に着手の順序を其始め二種に分つべし
甲は一の会社と、其名義廃官の者数年の労を賞せんがため一の継続会社と称し、開拓使に於て尤も利益ある左の件々を引受べし、其希望する所詳細は左の如し

(以下略)
 『五代友厚関係文書目録』R25 41 709

確かに、全文を読んで「甲」を北海社、「乙」を関西貿易社とすると、最初から2社は合併を前提に考えられていたと、読める内容ではあります。しかし、「甲」が北海社で「乙」が関西貿易社である事を示す根拠は、何もありません。

加えて、その考え方は「関西貿易社が、有利な払い下げを目論んで大儲けしようとした」という前提に立っています。

「関西支那輸出品に就て我貿易会社は利益を求るに非ず」の関西貿易社。

この史料については、信憑性があると判断できるほど根拠となる情報が無いので、真偽は不明です。

あくまで私見ですが、この史料をもって黒田清隆の作成した建議書の内容に疑いをかけ、やはり薩摩閥のつながりで払い下げを行おうとした、というのは、根拠の薄い予断ではないでしょうか。本史料の信憑性自体に疑いがある以上、この史料の存在をもって「政商五代友厚への払い下げが画策された」と言い切るのは、危険であると思います。

大久保利謙論文の存在

北海道開拓使官有物払下げを、関西貿易社が一手に引き受けるというのが誤報である事は、これまでに見た通りです。

では、あの教科書の記述は一体…?

その秘密は、歴史学者大久保利謙の論文にあります。大久保利謙が1952年に発表した「明治十四年の政変」を引用します。

(中略)この会社は、はじめ五代等が政府から500万円の資金を引出て一大商社を設立しようとしたが果たさず、徒に焦慮しつつあった際にたまたま開拓使廃止の問題が起こったので、この機会逸すべからずと早速関西貿易商会なるものをおこして開拓使の事業をそのまま引き受けようとしたのであった。(中略)
『東京横浜毎日新聞』は「関西貿易商会ノ近状」という社説を掲げて事件を暴露して、これから世論の沸となった。これがいわゆる開拓使官有物払下問題である。

何と、最初の誤報を基にして論文が書かれてしまったのです。この事実誤認は正される事なく、後の時代に影響を与えてしまったのです。それどころか、平成3年にこの論文を含んだ『大久保利謙歴史著作集2 明治国家の形成』刊行時には、解説にこう書かれています。

明治十四年の政変の研究史を検索する場合、ここに収録された同論文の学説史上の位置は、発表後すでに30余年を経た現在でも、なお、その水準を凌駕したものがないという事実を認めざるをえないのは…(以下略)

誤報の新聞記事を基にして書かれた論文が、学説史上の地位を確立してしまったのです。これが定説化し、日本史事典、日本史年表、教科書には記全て定説として記載されることとなります。

終わりに

私は、憤りを感じています。なぜなら、三浦春馬さんが「天外者」の主演で無ければ、このような史料の存在を全く知る事なく、一生を終えた可能性があるからです。

五代友厚の名は「政商」「北海道開拓使官有物払下げ事件」というキーワードとともに、頭のすみっこのほうに置かれたままだったでしょう。あれから20年以上が経過しても、日本史の教科書には「北海社」という文字は見られません。

誰かが論文を書いて、それが認められない限り、定説を覆すのは難しいのでしょうか。定説が覆されない限り、誤った(と思われる)情報が教科書に載り続けるのでしょうか。

私の読んでいない文献が他にもあるでしょうから、定説が正しいというのなら、それはそれで構いません。

でも、仮にそうだとしたら北海社はどこに行ったのでしょう。黒田清隆が作成し、当時の参議の稟議がちゃんと回っている証拠もある、建議書の内容はどう判断するのでしょうか。

富国の使徒として、スケールの大きな視野を持って明治の実業界を牽引した、五代友厚。彼の不名誉がもしも誤報に基づくものであるなら、訂正して、子どもたちには正しい歴史を教えてほしいと思います。

少なくとも、テスト問題で、五代友厚が開拓使官有物払下げに関わり、大儲けしようとしたかのような記述や選択肢を正解にするのは、定説が正しいと証明できない限り、やめて欲しいです。

その2では、北海道開拓使官有物払下げ事件が、政局にどのように利用されたかを含めて、説明します。

参考文献 「新・五代友厚伝」  八木孝昌著

    「明治史講義【テーマ編】」小林和幸編

本noteの記載事項には、十分に信憑性を検証されていない項目を含みます。ご理解ください。

なお、以下のnoteも参考にさせて頂きました。お礼申し上げます。




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